2015年7月31日金曜日

箱崎八幡宮と一光寺の石碑(改訂版)

私の両親は明治27年と32年に箱崎八幡宮の近くで生まれた。
母方は宮大工の棟梁で、八幡宮の仕事もてがけていたようだ。
両方とも菩提寺が、八幡宮の周辺にある。

明治35年頃の箱崎宮周辺地図

 
境内入り口の左手に「大社箱崎宮」の石碑(大正3年3月
:東郷平八郎謹書)があり、裏面に二十人ほどの寄附者の名前が刻まれている。
現在の石碑の位置

その中央部分に、母方の祖父「狩野久次郎」の名前があるのを最近知った。


何故大正3年なのか疑問であったが、最近その理由がわかった。箱崎宮は明治初期は県社の格であったが、明治18年4月に官幣中社となり、大正3年1月に官幣大社に格上げされた。その祝賀のため地元有志で大社の石碑を建てたのだ。


さらに最後部に祖々母方の「西田清吉」の名前もある。
私が生まれた頃には死亡しているので、全く記憶のないご祖先様だ。
氏子の代表的名前のなかに加わっているので、当時はご先祖さまも景気がよかったのだろう。
大正3年当時の写真も残っている。
官幣大社の文字


官幣大社箱崎宮




文字を書いた東郷平八郎元帥も、この頃は全盛期であったろう。
またこの大きな石材は、糸島の可也山の糸島花崗閃緑岩で、野北石という名前である。
野北海水浴場や漁港は知っていたが、 その北側に彦山があり昔は石材の産地だったようだ。今は採掘禁止になっていて、認可された開発工事のときにでてくる石材だけになっているという。

大社箱崎宮の正面


狩野久次郎の名前の部分


石碑裏全面
寄付者の名前全部
敗戦後に、官幣の文字を消して、八幡宮の紋が入れられた。

昔の写真では、石碑の位置が、一の鳥居に近い場所だったようだ。
官幣大社でなくなったから、少しひっこめた感じである。


南側入り口の石碑では、官幣が削られたままになっている。

香椎宮は昔のまま官幣を残している。


境内の大楠の洞穴は、子供だった両親たちがかくれんぼするときの遊び場だったという。
境内の大楠
わたしも子供の時は稚児行列に鎧冑姿で参加していた。今年は卒寿の祝賀参りをしたが、放生会にもでかけよう。
稚児の姿(右が私)

この石碑の横の箱崎宮一の鳥居は、黒田長政が寄進した鳥居である。その頃の長政は、豊臣黒田筑前守長政と称していたことが、鳥居に刻まれた名前からわかる。まだ秀吉の威光が残っていた時代だったようだ。









父方の曽祖父藤野八右衛門の墓は一光寺にあり、台石の裏面には、地区での業績がこまかく書かれている。


明治維新直後は、博多湾周辺の漁業者の統制が乱れて、漁区争いが続いた。明治新政府も手がまわらずにいたので、箱崎浦の古老だった曽祖父が飛び回って調整にあたり、問題解決にいたった経緯がきざまれている。
その内容は最後の写真に示している。
筑前触の絆は、深かったようだ。


石碑には、筑豊漁協、箱崎浦、姪浜浦、伊崎浦、玄海嶋、西浦、志賀島、浜崎浦、野北、唐泊浦,今津浦、弘浦、残島浦、小呂島浦、洲崎などの発起人や世話人の名前や各漁協の寄付金額などが刻まれている。
石工名には広田弘毅の弟の広田徳右エ門の名前がきざまれている。

広田弘毅の父広田徳平は、箱崎の農家の生まれで藤野姓であり、一光寺の檀家でもあった。徳平は広田石工店の丁稚として働き、その働きぶりを認められて広田家の養子となったそうだ。一光寺には広田による石碑が他にも多いようだ。

石碑の背面に刻まれた顕彰文の内容とその文章の活字を最後に添付しておく。


石碑の協賛者氏名


2015年7月26日日曜日

安川家と玄洋社と明道館

安川敬一郎は平岡浩太郎と炭鉱経営で懇意になり、玄洋社との縁ができて、頭山満とも知り合って玄洋社員となった。
中国の孫文の支援活動などを、頭山・平岡などと共に行った。
安川敬一郎の像
その子安川第五郎は、修猷館にはいり、玄洋社所属の明道館に入門して柔道をならった。2段の段位をもらった。
広田弘毅や和田三造なども明道館の門下生であった。
安川第五郎の肖像画
(和田三造 作品)
安川電機を創業し財界で活躍していた第五郎は、戦後公職追放される。
終戦直前に出来た「大日本政治会」の九州支部長になっていたからだろうと思っていた。
玄洋社の理事になっていたことは全く忘れていて、理事会に出席したこともなかったという。
しかし玄洋社理事だったことが、公職追放の理由だったという。
玄洋社跡





昭和26年に、明道館再興の委員会ができるとき、公職追放解除の直前だったが、第五郎は柔道の健全な発展を望んで、委員長を喜んでひきうけた。
明道館跡
明道館柔道之碑




晩年、第五郎は東京オリンピックの組織委員長に就任した。
当初の計画案では、柔道競技は水泳競技終了後に、代々木の水泳場のプールの上に、板をはってマットを敷き、ここで柔道競技をを行う予定であった。
第五郎は、日本の国技を風呂桶の上でやらせるのは何事かと、正力松太郎らと協議して、新しい武道館の建設に切り替え、オリンピック後も多目的につかえる武道館の建設に成功した。
明道館魂の成果であろう。
東京武道館

2015年7月17日金曜日

中山忠光卿(悲劇の家系図)

幕末史で多くの勤王派の志士が命をおとしたが、公家で犠牲となった人物が中山忠光卿である。
権大納言中山忠能の子で、姉の中山慶子は明治天皇の生母である。

早くから尊皇攘夷派の志士と交わり、ひそかに長州藩に身を投じて、久坂玄瑞の光明寺党の党首として下関における外国船砲撃戦に参加したり、生野義挙の支援をした。
大和行幸の詔が出されると、攘夷先鋒の勅命を願う好機として、吉村虎太郎らと組み天誅組のリーダーとなり、大和五条で挙兵したが、その戦いに敗れて長州藩にのがれてきた。

しかし長州藩も俗論派が主流をしめる時期であり、支藩の長府藩に預けの身となり、一部の過激犯により暗殺されてしまった。
豊北町田耕の渓谷に暗殺地の碑と中山神社の祠があるが、当時は病死として隠蔽された仮の墓地であった。
本格的な中山神社と墓は、下関市JR綾良木駅の海岸側500mにあり、慶応元年に長州藩が建立した。
中山神社

裏山にある忠光の墓

忠光の曾孫娘にあたる浩(ひろ)は、清国ラストエンペラ愛新覚羅溥儀の弟溥傑に嫁いでおり、その娘「慧生」の心中事件は有名だ。
愛新覚羅 溥傑・浩


家系図


戦後北京での病死後に夫溥傑が来日した折に、この境内に愛新覚羅社が建てられた。
愛新覚羅社
悲劇の歴史の家系である。



2015年7月16日木曜日

台風接近

今回の11号台風接近で、竹林が波打っている。