一人の錦小路頼徳は山口で病死してしまったが、今一人の澤宣嘉は、脱落ではなく明治まで存命し、活躍している。
澤宣嘉 |
平野国臣が農兵を組織し、長州の河上弥市(南八郎)らの奇兵隊とくみ、澤宣嘉を擁して長州を脱藩して、但馬の生野代官所を襲撃し占領した。有名な「生野の変&生野義挙」である。
生野義挙跡 |
しかし幕府軍の反撃にあって大敗し、河上ら奇兵隊有志十三人は自刃、平野は捕らえられて斬首された。
正義十三士自刃の跡 |
澤宣嘉は出石藩の高橋甲太郎、伊予の田岡俊三郎、阿波の森源蔵らに守られて巧みに生野を脱出して、伊予の小松藩士に匿われ、さらに長州の白石正一郎宅まで逃れて、明治をむかえている。
白石正一郎宅 |
明治新政府では、参与・九州鎮撫総督・長崎府知事となり、さらに外国官知事から外務卿となり、外交政務に携わったが、その後明治6年に38歳で病死した。
河上の又従弟であり、明治政府の元勲になり、日本大学を創設していた山田顕義が、明治25年に生野を訪れて、河上の墓参りをすませ、ついでに生野銀山を視察した。
山田顕義と河上弥市の系図 |
生野銀山 |
ところが太盛三番坑道入口で突然倒れて死亡した。49歳だった。当時皇室財産だった銀山で元勲が事故死したのではよくないので、長年病死とされていた。
昭和63年に発掘調査された山田の頭蓋骨には大きな外傷があり、事故死を裏付けるものであったという。長州と生野の因縁話になっている。
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