2018年9月7日金曜日

猛将 島左近

猛将 島左近


島左近の実名は島清興(一説には勝猛)と言います。


島左近に関する資料は少なく、三成に仕えるまでの経歴などはあまりはっきりしていません。

 通説では山城の国の筒井家に仕えており、筒井家当主である順慶の死後、跡を継いだ順慶の甥である定次とそりが合わず、浪人をしていたと言われています。

浪人とはいえ、その名が広く知られていた島左近の元には、多くの大名からの仕官話がありましたが、左近はその話をすべて断っていました。

 その頃、近江4万石の領主であった石田三成からも仕官の要請がありました。

もちろん、その誘いにも難色を示した左近でしたが、三成はこの時に大きな賭けに出ます。

 「自身の俸禄の半分である2万石を与えるので、自分の家臣になってほしい。」

 島左近ほどの人物であれば2万石以上で召抱えたい大名家は沢山ありましたが、左近は自身の俸禄の半分を与えてまで自分を必要としてくれているという三成の想いに打たれ、仕官を決めたといいます。

 官僚としての才能は抜群だった三成ですが、軍事面に関する能力は今一つだったとされています。

そんな三成にとって、武勇と軍略の才に長けた島左近は、どうしても自分の家臣としておきたい人物でした。

 三成が自分の給料の半分を出してまで得た左近は、共に朝鮮へも出兵し、関ヶ原まで運命を共にすることになります。



 左近の軍略

やがて三成の仕える豊臣秀吉が病で没すると、天下を狙う徳川家康が台頭してきます。
軍略家である左近は、家康の動きを警戒し、これを早めに攻略すべく、関ケ原の以前に、左近は何回も軍略を提案しています。

1)まだ伏見城にいる頃の家康の手薄なところをねらって、急襲して暗殺する計画が最初です。
2)次は家康が上杉征伐に東征するとき、最初の宿場の水口を急襲する計画です。
3)次は家康の軍が、引き返してきたとき、迎え撃つ戦場を、関ケ原でなく、尾張、三河の熱田神宮に本陣をおき、七里の干潟で食い止めるという作戦です。

軍略家である左近は、まともに戦っても勝ち目がないことを見通して三成に進言したようですが、その声は三成には届きませんでした。三成は大義名分、正々堂々とした戦いを主張したのです。


 覚悟を決めた左近は、関ヶ原の戦いの前哨戦である杭瀬川の戦いに、兵500を率いて出陣。

見事に東軍を敗退させて完勝します。

 東軍の出鼻を挫いて勢いに乗りたかった左近は、薩摩の大名であり、戦上手で知られる島津義弘と共に、その日の夜に「夜襲」を三成に提案しますが、この合戦の経験が豊富な2人の軍略家の案にも三成は首を縦に振りませんでした。 左近の考えた策は、またしても三成に却下されてしまいます。

戦上手の島左近や島津義弘の意見を聞かなかった三成のこういう頭が固いところが、西軍を負けに導いた一因であると思っています。

こうして島左近は、最期の舞台、関ヶ原へと出陣していく事になります。

 関ヶ原の戦い


関ヶ原の戦いで島左近は黒田長政の軍と激突します。

はじめは鬼神の如き左近の活躍もあり、西軍有利に進行しますが、島津や毛利、小早川が傍観の姿勢を見せ、戦に加わらなかったため、徐々に西軍は劣勢に陥っていきます。

 やがて左近は、黒田官兵衛の息子である長政が迂回させた鉄砲隊の銃撃により負傷、そして小早川秀秋の裏切りにより、西軍は瓦解してしまいました。

左近は負傷しつつも奮戦しますが、最後には討ち死にしたと伝わります。


 左近の勇猛さは関ヶ原の戦いが終わった後も黒田軍の脳裏に焼き付いていたそうで、左近が鬼の形相で「かかれー」という怒声が長政の兵たちの夢に出てきたと言われています。

島左近生存説


一方、島左近は関ヶ原で戦死しておらず、京都に落ち延びて僧として生活したという説もあります。
源義経や後藤又兵衛、豊臣秀頼などもそうですが、人気のある武将には、『実は生きていた』という生存説が伝わる事が良くあります。
 ただ、ほとんどの場合、こういった話の信憑性はとても低いものです。
しかし、島左近の場合は多くの書物に記載があり、墓や位牌もあることから、意外と信憑性は高いのではないかと言われています。
 島左近が生きていたとされる理由
天下分け目の関ケ原の戦いは小早川秀秋らの裏切りにより諸大名の予想を大幅に上回ってわずか半日で決着。
敗れた西軍の大名らは幕府によって厳しい追及を受けます。

大大名であった毛利・上杉は減封、長曾我部・宇喜多らは改易となり秀吉存命時に築かれた勢力図は大幅に塗り替えられました。
そして、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は処刑、島左近・大谷吉継・島津豊久は戦死します。

しかし、当時の豊臣に対する世間の追慕の意志が強く「いつかきっと豊臣が世を再興する」という願いがあちこちで噂を生存説の噂を生みました。関ケ原の戦いで死んだはずの島左近の生存説もその代表です。
しかし、その遺体が最後まで見つからなかったことからあちこちで生存説を生むことになります。
 東広島市西条の酒造メーカー・白牡丹の創業家は島氏であり、左近の子孫だとする説はその代表的なものですが、他にも京都に潜伏し僧として立本寺に入り関ケ原から32年後に没したとする説もあります。
これには残された位牌が過去帳に左近の名前があることが根拠となっていますが、関ケ原当時京都では左近を見かけたという報せが相次いで挙がっていたようです。
 他にはなぜか九州・対馬の島山島に左近のものとされる墓が存在します。
九州説には他に、左近が関ケ原の後に鎌倉光明寺にて出家し細川忠興に仕えたのち、息子の忠利と共に熊本に入って西岸寺の泰岩和尚となって中興の祖として褒め称えられ。
忠利のために情報収集などで活躍したとする説もあります。
 所変わって静岡県にも島家の子孫を自称する家があります。
左近から数えて23代目という方によると、左近はここで金八と名を改めて百姓となり春になると部下を招いて宴会を開いたそうです。
自分の家のことは「おさか」、つまり大坂と呼び終生豊臣に忠誠を尽くしたそうです。
『影武者徳川家康』の隆慶一郎氏は取材としてこの島家に訪問し実際に話を伺っているとのことで、左近はあちこちで足跡を残しているようです。
 当時日本では浪人が溢れており、それを全員処断するのは現実的に不可能でした。
 この辺りは大坂の陣の真田信繁・毛利勝永に共通するものがあり、強引なやり方で天下を取った家康に対する反感が、生存説になったといえます。




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