平安末期に、源頼朝の挙兵に協力した甲斐源氏の武田氏については触れていない。
内容は信虎時代の国内統一を背景に領国拡大を行った武田信玄を中心に、武田家や家臣団の逸話や事跡の紹介、軍学などが雑然と構成され、軍学以外にも武田家の儀礼に関する記述などが豊富で、注目される記述も多い。
信玄が諸国の絵図をあつめ、天下統一のときの拠点として、相模国星谷(座間市)を考えていたこと、新旧家臣の子息の縁組を担当する女性の小宰相を任命していたことなど。
信玄亡き後、勝頼が長篠の戦で大敗し、甲斐で留守を守っていた武田家臣である高坂弾正昌信(春日虎綱、以後虎綱と記述する)が、武田家の行く末を危惧し、虎綱の甥である春日惣次郎・春日家臣大蔵彦十郎らが虎綱の口述を4年間書き継いだという体裁になっている。虎綱は農民出身の知者で、口述しか出来なかった。
彼らの死後、これを武田家の足軽大将であった小幡昌盛の子景憲が入手し、さらに手を加えて成立したものと考えられている。
『軍鑑』の原本は存在していないが、元和7年の小幡景憲写本本が最古写本として残されており、景憲は『甲陽軍鑑』を教典とした甲州流軍学を創始し、幕府をはじめとした諸大名家に受け入れられている。
国語学者の酒井憲二は1990年代から『軍鑑』に関する国語学的、文献学的、書誌学的検討を行い、酒井は軍鑑の研究水準を大きく引き上げた。
酒井は、軍鑑の様々な版本と写本を、文献学的・書誌学的に照らしてそれぞれ系統的に整理し、最古の写本の発見、用語の時代変化の研究などで、テキストの底本とすべき写本を確定させた。
酒井の軍鑑研究は、『甲陽軍鑑大成 第四巻 研究編』(汲古書院、1995年1月)にまとめられている。また、『甲陽軍鑑大成 本文編上・下』を版行した。
酒井の研究の主要な結論を以下にまとめる。
- 軍鑑は本来全24冊構成であること。
- 軍鑑の原本は、主に高坂弾正の口述・口語りを大倉彦十郎らが筆記することで成立したと考えられる。弾正死後は、甥の春日惣次郎によって書き継がれた。しかし武田氏滅亡以降、惣次郎は浪々の苦境にあり、原本は傷んでいった。それを小幡光盛から入手した小幡景憲は、傷んだ原本の書写に努め、元和7年(1621年)頃に写本を作り上げた(この写本は現存しない)。景憲の書写態度は、傷んで写し難い箇所は「切れて見えず」という注釈を190数箇所もしているように原本に忠実であり、加筆や潤色などがあっても、最小限に留められたであろうと判断できる。
- 軍鑑本来の本文は、息の長い一センテンス文、類語の積み重ねによる重層表現、新興語、老人語(古語)、俗語、甲斐・信濃の方言や庶民が使用する「げれつことば」など、室町末期の口語り的要素を色濃く残している。このような文章を、小幡景憲の世代が真似て書くことは出来ない。景憲の役割は、謹直な写し手、つまり写本の作成者であって、通説のような編纂者や著者では有り得ない。
- 幾多の合戦を信玄と共にした高坂弾正ならば犯すはずのない誤りが少なくないと言われるが、「存じ出だし次第書するにつき、年号、よろづ不同にして、前後みだりに候とも」(巻一末尾)、「人の雑談にて書き写し候へば、定めて相違なる事ばかり多きは必定ばれ共」(巻五)などの自ら断っている通りであって、史料として限界があるのは当然である。特に口語りという史料の性格上、年月に誤りがあるのは必然である(誰しも10年、20年前の出来事の日時を正確に語るのは難しい)。むしろ、その誤謬が何故起こったのかを考察すべきで、誤謬があるからといって軍鑑の価値を下げることは出来ない。
- 軍鑑は、「勝頼公御代のたくらべになるべき」事を願って、信玄遺臣の立場から新君勝頼公とその側近跡部勝資・長坂光堅への陳言書として書かれたものを根幹としている。
この酒井の国学的研究を嚆矢に、平山優、小和田哲男、黒田日出男らが実証的研究の立場から軍鑑を再評価した。軍鑑を厳しく評価する笹本正治も、武家故実や戦国人の習俗などの記述については史実を伝えていると判断を下している。
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