胸形尼子姫は天武天皇の妃に迎えられたが、妃の数は当時にの多妻時代であっても、異常に多かった。天智天皇の娘四人が、当時皇太子だった天武の妃となった。天智の次女(持統皇后)の子が草壁皇子、長女(太田皇女)の子が大津皇子、三女(大江皇女)の子が長皇子、、弓削皇子、四女(新田部皇女)の子が舎人皇子。藤原鎌足も二人の娘を天武の夫人とし、長女は但馬皇女を生み次女が新田部皇子を生む。蘇我赤兄の娘も夫人となり、穂積皇子と皇女二人をうむ。
その他、采女として額田姫王は十市皇女を、筑紫の豪族・胸形君徳善の娘尼子姫は高市皇子を生む。穴人臣大麻呂の娘も、忍壁・磯城の二皇子と二皇女を生む。
このように天武には、わかっているだけでも皇后のほかに、第二夫人が九人もおり、十七、八人も子供がいた子福者であった。
壬申の乱では、吉野側のこの子供たちが団結して戦い、近江側の大友皇子軍を破ることに成功する。
しかし天武天皇の死亡後、自分の子に王位を継がせたい願っていたと持統天皇は、草壁皇子が早逝したため、孫の軽皇子が成長するまで、自ら即位して持統天皇となり、孫に皇位を継承することにした。
壬申の乱は、もともと律令国家への政策論争ではなく、天智天皇に男子がなく弟の天武に王位をつがせる予定だったのに、大友皇子が誕生したので起きた王位継承の争いだった。
持統天皇も、律令国家や仏教護持政策を継承していく方針を受け継いで実行しようとして、壬申の乱で敵対していた、もと近江側の家臣を登用しはじめた。
特に藤原鎌足の子、不比等の娘「宮子」を、軽皇子の妃に選んだ。このため天武天皇に尽くしてきた吉野側の子供たちは、近江側から敬遠されるようになり、軽皇子が文武天皇のなる時代には、幾つかの騒動が発生する。
藤原不比等の妻は加茂氏の娘であり、加茂氏は壬申の乱では、吉野側で戦ったという。しかしその後の勢力情勢をよくみて、娘を藤原に嫁がせた。一族は加茂神社の神官として、長く後世に栄え、現在にいたっている。
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