2018年9月17日月曜日

源頼朝・北条義時の墓と島津氏



史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)

国指定史跡。正式名称は見出しのとおりで、読み方は「しせきほっけどうあと(みなもとよりとものはか・ほうじょうよしときのはか)」です

50m程の小道を挟んで別々の階段の先にある源頼朝墓と北条義時墓が合わせて1つの国指定史跡に指定されています。




鎌倉市の白旗神社奥にあるこの源頼朝の墓には、島津家の轡十文字の家紋がきざまれています。

文部省唱歌「鎌倉」の歌詞に、
 歴史は長き七百年 興亡すべて夢に似て 英雄は墓は苔むしぬ
とあるように、
江戸時代には鎌倉はすっかり寂れて、頼朝の墓も荒れ放題になっていました。
島津重豪が、1779年にこれを整備したついでに、家紋を刻んだということです。

島津氏の祖先の島津忠久は、頼朝の隠し子という説があり、惟宗(注1)の養子に出され、やがて薩摩に移って島津氏を称したらしいです。
注1:惟宗氏 
家系としては朝臣または宿禰の姓をもつもの、また伊統これむねと称するものもあるが、中でもよく知られるのは惟宗直宗直本兄弟らに始まる惟宗朝臣である。彼らは讃岐国香川郡を本貫とする秦公(はたのきみ)であったが、本貫を京に移し、883年に同族の秦宿禰秦忌寸とともに惟宗朝臣の姓を賜った。惟宗直本は『律集解』と『令集解』の著者として名高い。彼の子孫は明法家あるいは医家として知られ、『本朝月令』を書いた惟宗公方、『政事要略』を書いた惟宗允亮(律令にちなみ「令宗よしむね朝臣」を賜った)が有名

また系譜は必ずしも明らかでないが在庁官人や郡司などに多くの名が見える。惟宗広言もしくは惟宗忠康の子・忠久日向国に下って土着し、当地にあった荘園「島津荘」にちなんで島津氏と名乗るようになったとされる。ただし忠久は源頼朝落胤と自称して(後世の伝承)、島津氏は(名目上は)清和源氏ということになっている。

忠久の墓も頼朝の墓の近くに同じ時期につくられています。
また側近だった大江広元やその子孫の毛利季光の墓も近くつくられており、幕末の薩長同盟への路線の下地が、鎌倉の地で行われていたようです。




この地区は、16m程度の石段を上がった先にある770平方メートル程度の平場で、2005年の発掘調査で、この平場の地下から墳墓堂(法華堂)の遺構が発見されました。

発見された遺構の位置が、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記載された頼朝墓からの方位と地形と一致したことから、遺構は北条義時が祀られていた北条義時法華堂の跡であると推定されています。

遺構は現在の地表より下にあるため、保護するために調査後は埋め戻しを行い、草地として維持管理しています。遺構の真上には、調査でみつかった(柱の位置関係から割り出した推定も含む)法華堂の礎石や柱の跡、雨落ち溝の跡の実際の位置を木杭や石で地表に示しています。



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