作家・原田伊織氏
西郷隆盛は粘着質のテロリストでした
2018年09月03日 09時26分 日刊ゲンダイDIGITAL
2018年09月03日 09時26分 日刊ゲンダイDIGITAL
NHK大河ドラマ「西郷どん」が薩長同盟まで進んだ。西郷隆盛が明治維新のために奔走する姿は痛快でもある。そんな折、「虚像の西郷隆盛 虚構の明治150年」(講談社)という本が話題になっている。同書によると西郷の実像は現代人がドラマなどで接している西郷像と正反対で、粘着質で非情な性格だったという。西郷とは何者なのか、なぜ「大西郷」のイメージがつくられたのか。著者に語ってもらった。
彼の特徴的な性格は大きくは2点。1つは何事も腕力で解決したがる武断派であること。もう1つは粘着質です。粘着質とは思い込みが強いと言い換えてもいいでしょう。西郷は一度他人を嫌いになったら死ぬまで嫌い続けました。いい例が主君・島津斉彬が死去したあと国父となった久光への態度です。実質的な藩主に向かって「地ごろ」という侮蔑の言葉を吐きかけて怒りを買い、結果的に2度目の島流しを受けています。西郷は自分の主は斉彬しかないという思いが強く、その反動として久光に反感を抱いた。職場の同僚や上司とうまく人間関係を構築できないタイプだったのです。
――武断派とは。
マキャベリストという言葉があります。目的のためには手段を選ばない人をいうのですが、西郷はまさにそれ。何事も暴力で解決しようとする危険な人物でした。たとえば、徳川慶喜が大政奉還を果たし、朝廷側が王政復古の大号令を発したあとに行われた小御所会議。この会議で土佐藩の山内容堂が慶喜を出席させなかった岩倉具視を批判します。西郷は慶喜の命を奪いたいとさえ思っていたため、正論を主張する容堂が目障りで仕方ない。そこで西郷は「短刀一本あれば片が付く」と発言します。「ガタガタ言うなら刺せばいい」という意味のこの言葉が人づてに容堂に伝わり、容堂はひるんだ。その結果、慶喜の官位と領地を没収することが反対なしで決まりました。西郷は万事暴力で解決しようとする武断派であり、テロリストだったと言えます。
――なぜ、こんな性格になったのでしょうか。
福沢諭吉は西郷の一面を評価しましたが、「西郷の罪は不学にある」とも言っています。学問を積んでいないのです。だから緻密に考える頭脳がなく、話し合いが苦手。考えの異なる人ときちんと議論できず、何事も暴力でぶっ潰せばいいと考える。彼が徳川幕府を倒すという目標ばかりに目を奪われたのは不学による暴力性があったからだと考えられます。これが長州にとっては都合がよかった。
――西郷のこうした暴力性は昭和初期の軍人を思わせるものがあります。
そのとおりです。昭和11(1936)年の「二・二六事件」では青年将校ら約1500人が首相官邸などを占拠し、高橋是清ら要人を殺害しました。彼らは西郷のように「問答無用!」と暴挙に走った。西郷と長州が残した野蛮な成功体験を受け継いだのです。この二・二六事件のあと、軍部はさらに「問答無用!」の性向を強めて国民を巻き込み、太平洋戦争に突入した。西郷は戊辰戦争に突っ込んでいきました。
――西郷は暴力のほかにはかりごとも好きでした。
慶応3(1867)年10月、慶喜が大政奉還を上奏しました。これに西郷らは焦ります。慶喜に政治権力を放棄されたら、徳川幕府を倒す口実がなくなるからです。そこで慌てて「討幕の密勅」を天皇の名で薩摩藩と長州藩に向けて出します。実はこれは下級公家の岩倉具視や西郷・大久保利通が偽造したニセの密勅でした。まさに目的のためには手段を選ばない西郷らしいやり口。今年になって財務省による公文書改ざん問題が物議をかもしましたが、西郷らの行為はもっとひどい。天皇の命令を捏造したのだから、史上最悪の改ざん事件です。
――いわゆる「御用盗」もはかりごとでした。
西郷には、いわゆる「公武合体」という考えは毛頭なく、ただ武力討幕のみを目指した。戦争を起こしたくて仕方なかったのです。幕府側はそうした西郷らの意図を読んでいて、慎重な態度を通しました。焦った西郷は挑発行為に出ます。岩倉の了承を得て「赤報隊」というテロ部隊を組織。隊長の相楽総三に江戸市中で放火、略奪、強姦、強殺を実行するよう命じます。今より倫理観が強かった江戸社会において最も罪の重かった蛮行で、このテロ集団を江戸の市民は「薩摩御用盗」と呼んで恐れました。赤報隊の大半は金で買われた無頼の徒で、総勢500人まで膨らんだとされます。
――赤報隊のテロに対して我慢の限界にきた、江戸を守護していた庄内藩は三田の薩摩藩邸を攻撃しました。
西郷は「手を打って喜んだ」といわれます。この攻撃を口実に翌慶応4年1月に鳥羽伏見の戦いが始まり、戊辰戦争が勃発します。西郷が正々堂々とした人物というのは、それこそ現代人の思い込み。目的のためなら殺人や強姦も辞さないテロリストとしか言いようがありません。この戊辰戦争で西郷らは徳川政権を滅ぼし、明治維新が成立したわけですが、その一番の功労者が無法者集団の赤報隊という厳然とした史実が残りました。
■日米の不平等は今の方が深刻
――その「赤報隊」も西郷に殺されました。
相楽以下の赤報隊は西郷の許可を得て、あちこちで「新政府になったら年貢が半減されるぞ」と宣伝し、農民の共感を集めました。ところが西郷はこの年貢半減を取り消し、赤報隊を「偽官軍」として追討したのです。年貢半減は相楽たちが勝手に触れ回ったものというのが西郷の言い分。相楽たち赤報隊は下諏訪と桑名で処刑されました。要するに相楽たちは利用されただけ。西郷にしてみれば、最初から赤報隊を使い捨てにする腹づもりでした。西郷という男はこうした非情なことを平然とやってのける神経を持っていたのです。
――こんな暴力的で非情な西郷がなぜ、「西郷さん」と尊敬されるようになったのでしょう。
明治新政府が庶民にあまりにも人気がなかったからです。国民は新政府に反感を抱き、その反動として政府に歯向かって西南戦争で戦死した西郷の人気が高まった。賊軍に拍手を送ったわけです。当時、できたばかりの東京日日新聞などが西南戦争で従軍取材を行い、それらの情報をもとに西郷をヒーローとして描いた錦絵が爆発的に売れた。中身は嘘八百で一種のエンターテインメント。しまいには、夜空に「西郷星」が現れたとまで書いた。実は大接近した火星にすぎないのに、庶民は西郷が星となって現れたと信じたのです。
――明治新政府もイメージ戦略をしたと聞きます。
黒船来航で幕府がオロオロし、ペリーに不平等な日米修好通商条約を押し付けられて、言われるままに署名したという先入観を国民に植え付けたのです。しかし実は日本側は最高35%の関税を課すことで米国側に合意させた。また、これに先立つ日米和親条約では、米国側の恫喝に屈せず、治外法権を断固として認めませんでした。徳川幕府にはこうした有能で肚のある外交官がそろっていたのですが、ほとんど知られていません。明治以降の政府が隠蔽したからです。
――現在の日本とは大違いです。
政権の隠蔽体質だけは全く同じです。いまの日本は米軍が居座り、日米地位協定を盾に好き放題されている。米軍機が事故を起こしても日本は警察権すら行使できない。米軍の無線局は日本の電波法の適用外。米軍は出入国管理法の適用を受けないので、国内に何人の兵士が在住しているかを日本側は全く把握できない。米軍関係者は高速道路を走るときに料金を払わなくていい。だから観光旅行で高速を走るときもタダです。そもそもJALもANAも日本の領空でも米軍の認めたルートしか飛べない。もし幕末の徳川官僚であれば、このような不平等条約に、毅然とした態度で「ノー」を突きつけたはずです。明治150年の今日、西郷神話の虚偽と、幕末の外交交渉の中身をきちんと検証するべきだと思います。
(聞き手=本紙・森田健司)
NHK大河ドラマ「西郷どん」が薩長同盟まで進んだ。西郷隆盛が明治維新のために奔走する姿は痛快でもある。そんな折、「虚像の西郷隆盛 虚構の明治150年」(講談社)という本が話題になっている。同書によると西郷の実像は現代人がドラマなどで接している西郷像と正反対で、粘着質で非情な性格だったという。西郷とは何者なのか、なぜ「大西郷」のイメージがつくられたのか。著者に語ってもらった。
彼の特徴的な性格は大きくは2点。1つは何事も腕力で解決したがる武断派であること。もう1つは粘着質です。粘着質とは思い込みが強いと言い換えてもいいでしょう。西郷は一度他人を嫌いになったら死ぬまで嫌い続けました。いい例が主君・島津斉彬が死去したあと国父となった久光への態度です。実質的な藩主に向かって「地ごろ」という侮蔑の言葉を吐きかけて怒りを買い、結果的に2度目の島流しを受けています。西郷は自分の主は斉彬しかないという思いが強く、その反動として久光に反感を抱いた。職場の同僚や上司とうまく人間関係を構築できないタイプだったのです。
――武断派とは。
マキャベリストという言葉があります。目的のためには手段を選ばない人をいうのですが、西郷はまさにそれ。何事も暴力で解決しようとする危険な人物でした。たとえば、徳川慶喜が大政奉還を果たし、朝廷側が王政復古の大号令を発したあとに行われた小御所会議。この会議で土佐藩の山内容堂が慶喜を出席させなかった岩倉具視を批判します。西郷は慶喜の命を奪いたいとさえ思っていたため、正論を主張する容堂が目障りで仕方ない。そこで西郷は「短刀一本あれば片が付く」と発言します。「ガタガタ言うなら刺せばいい」という意味のこの言葉が人づてに容堂に伝わり、容堂はひるんだ。その結果、慶喜の官位と領地を没収することが反対なしで決まりました。西郷は万事暴力で解決しようとする武断派であり、テロリストだったと言えます。
――なぜ、こんな性格になったのでしょうか。
福沢諭吉は西郷の一面を評価しましたが、「西郷の罪は不学にある」とも言っています。学問を積んでいないのです。だから緻密に考える頭脳がなく、話し合いが苦手。考えの異なる人ときちんと議論できず、何事も暴力でぶっ潰せばいいと考える。彼が徳川幕府を倒すという目標ばかりに目を奪われたのは不学による暴力性があったからだと考えられます。これが長州にとっては都合がよかった。
――西郷のこうした暴力性は昭和初期の軍人を思わせるものがあります。
そのとおりです。昭和11(1936)年の「二・二六事件」では青年将校ら約1500人が首相官邸などを占拠し、高橋是清ら要人を殺害しました。彼らは西郷のように「問答無用!」と暴挙に走った。西郷と長州が残した野蛮な成功体験を受け継いだのです。この二・二六事件のあと、軍部はさらに「問答無用!」の性向を強めて国民を巻き込み、太平洋戦争に突入した。西郷は戊辰戦争に突っ込んでいきました。
――西郷は暴力のほかにはかりごとも好きでした。
慶応3(1867)年10月、慶喜が大政奉還を上奏しました。これに西郷らは焦ります。慶喜に政治権力を放棄されたら、徳川幕府を倒す口実がなくなるからです。そこで慌てて「討幕の密勅」を天皇の名で薩摩藩と長州藩に向けて出します。実はこれは下級公家の岩倉具視や西郷・大久保利通が偽造したニセの密勅でした。まさに目的のためには手段を選ばない西郷らしいやり口。今年になって財務省による公文書改ざん問題が物議をかもしましたが、西郷らの行為はもっとひどい。天皇の命令を捏造したのだから、史上最悪の改ざん事件です。
――いわゆる「御用盗」もはかりごとでした。
西郷には、いわゆる「公武合体」という考えは毛頭なく、ただ武力討幕のみを目指した。戦争を起こしたくて仕方なかったのです。幕府側はそうした西郷らの意図を読んでいて、慎重な態度を通しました。焦った西郷は挑発行為に出ます。岩倉の了承を得て「赤報隊」というテロ部隊を組織。隊長の相楽総三に江戸市中で放火、略奪、強姦、強殺を実行するよう命じます。今より倫理観が強かった江戸社会において最も罪の重かった蛮行で、このテロ集団を江戸の市民は「薩摩御用盗」と呼んで恐れました。赤報隊の大半は金で買われた無頼の徒で、総勢500人まで膨らんだとされます。
――赤報隊のテロに対して我慢の限界にきた、江戸を守護していた庄内藩は三田の薩摩藩邸を攻撃しました。
西郷は「手を打って喜んだ」といわれます。この攻撃を口実に翌慶応4年1月に鳥羽伏見の戦いが始まり、戊辰戦争が勃発します。西郷が正々堂々とした人物というのは、それこそ現代人の思い込み。目的のためなら殺人や強姦も辞さないテロリストとしか言いようがありません。この戊辰戦争で西郷らは徳川政権を滅ぼし、明治維新が成立したわけですが、その一番の功労者が無法者集団の赤報隊という厳然とした史実が残りました。
■日米の不平等は今の方が深刻
――その「赤報隊」も西郷に殺されました。
相楽以下の赤報隊は西郷の許可を得て、あちこちで「新政府になったら年貢が半減されるぞ」と宣伝し、農民の共感を集めました。ところが西郷はこの年貢半減を取り消し、赤報隊を「偽官軍」として追討したのです。年貢半減は相楽たちが勝手に触れ回ったものというのが西郷の言い分。相楽たち赤報隊は下諏訪と桑名で処刑されました。要するに相楽たちは利用されただけ。西郷にしてみれば、最初から赤報隊を使い捨てにする腹づもりでした。西郷という男はこうした非情なことを平然とやってのける神経を持っていたのです。
――こんな暴力的で非情な西郷がなぜ、「西郷さん」と尊敬されるようになったのでしょう。
明治新政府が庶民にあまりにも人気がなかったからです。国民は新政府に反感を抱き、その反動として政府に歯向かって西南戦争で戦死した西郷の人気が高まった。賊軍に拍手を送ったわけです。当時、できたばかりの東京日日新聞などが西南戦争で従軍取材を行い、それらの情報をもとに西郷をヒーローとして描いた錦絵が爆発的に売れた。中身は嘘八百で一種のエンターテインメント。しまいには、夜空に「西郷星」が現れたとまで書いた。実は大接近した火星にすぎないのに、庶民は西郷が星となって現れたと信じたのです。
――明治新政府もイメージ戦略をしたと聞きます。
黒船来航で幕府がオロオロし、ペリーに不平等な日米修好通商条約を押し付けられて、言われるままに署名したという先入観を国民に植え付けたのです。しかし実は日本側は最高35%の関税を課すことで米国側に合意させた。また、これに先立つ日米和親条約では、米国側の恫喝に屈せず、治外法権を断固として認めませんでした。徳川幕府にはこうした有能で肚のある外交官がそろっていたのですが、ほとんど知られていません。明治以降の政府が隠蔽したからです。
――現在の日本とは大違いです。
政権の隠蔽体質だけは全く同じです。いまの日本は米軍が居座り、日米地位協定を盾に好き放題されている。米軍機が事故を起こしても日本は警察権すら行使できない。米軍の無線局は日本の電波法の適用外。米軍は出入国管理法の適用を受けないので、国内に何人の兵士が在住しているかを日本側は全く把握できない。米軍関係者は高速道路を走るときに料金を払わなくていい。だから観光旅行で高速を走るときもタダです。そもそもJALもANAも日本の領空でも米軍の認めたルートしか飛べない。もし幕末の徳川官僚であれば、このような不平等条約に、毅然とした態度で「ノー」を突きつけたはずです。明治150年の今日、西郷神話の虚偽と、幕末の外交交渉の中身をきちんと検証するべきだと思います。
(聞き手=本紙・森田健司)
彼の特徴的な性格は大きくは2点。1つは何事も腕力で解決したがる武断派であること。もう1つは粘着質です。粘着質とは思い込みが強いと言い換えてもいいでしょう。西郷は一度他人を嫌いになったら死ぬまで嫌い続けました。いい例が主君・島津斉彬が死去したあと国父となった久光への態度です。実質的な藩主に向かって「地ごろ」という侮蔑の言葉を吐きかけて怒りを買い、結果的に2度目の島流しを受けています。西郷は自分の主は斉彬しかないという思いが強く、その反動として久光に反感を抱いた。職場の同僚や上司とうまく人間関係を構築できないタイプだったのです。
――武断派とは。
マキャベリストという言葉があります。目的のためには手段を選ばない人をいうのですが、西郷はまさにそれ。何事も暴力で解決しようとする危険な人物でした。たとえば、徳川慶喜が大政奉還を果たし、朝廷側が王政復古の大号令を発したあとに行われた小御所会議。この会議で土佐藩の山内容堂が慶喜を出席させなかった岩倉具視を批判します。西郷は慶喜の命を奪いたいとさえ思っていたため、正論を主張する容堂が目障りで仕方ない。そこで西郷は「短刀一本あれば片が付く」と発言します。「ガタガタ言うなら刺せばいい」という意味のこの言葉が人づてに容堂に伝わり、容堂はひるんだ。その結果、慶喜の官位と領地を没収することが反対なしで決まりました。西郷は万事暴力で解決しようとする武断派であり、テロリストだったと言えます。
――なぜ、こんな性格になったのでしょうか。
福沢諭吉は西郷の一面を評価しましたが、「西郷の罪は不学にある」とも言っています。学問を積んでいないのです。だから緻密に考える頭脳がなく、話し合いが苦手。考えの異なる人ときちんと議論できず、何事も暴力でぶっ潰せばいいと考える。彼が徳川幕府を倒すという目標ばかりに目を奪われたのは不学による暴力性があったからだと考えられます。これが長州にとっては都合がよかった。
――西郷のこうした暴力性は昭和初期の軍人を思わせるものがあります。
そのとおりです。昭和11(1936)年の「二・二六事件」では青年将校ら約1500人が首相官邸などを占拠し、高橋是清ら要人を殺害しました。彼らは西郷のように「問答無用!」と暴挙に走った。西郷と長州が残した野蛮な成功体験を受け継いだのです。この二・二六事件のあと、軍部はさらに「問答無用!」の性向を強めて国民を巻き込み、太平洋戦争に突入した。西郷は戊辰戦争に突っ込んでいきました。
――西郷は暴力のほかにはかりごとも好きでした。
慶応3(1867)年10月、慶喜が大政奉還を上奏しました。これに西郷らは焦ります。慶喜に政治権力を放棄されたら、徳川幕府を倒す口実がなくなるからです。そこで慌てて「討幕の密勅」を天皇の名で薩摩藩と長州藩に向けて出します。実はこれは下級公家の岩倉具視や西郷・大久保利通が偽造したニセの密勅でした。まさに目的のためには手段を選ばない西郷らしいやり口。今年になって財務省による公文書改ざん問題が物議をかもしましたが、西郷らの行為はもっとひどい。天皇の命令を捏造したのだから、史上最悪の改ざん事件です。
――いわゆる「御用盗」もはかりごとでした。
西郷には、いわゆる「公武合体」という考えは毛頭なく、ただ武力討幕のみを目指した。戦争を起こしたくて仕方なかったのです。幕府側はそうした西郷らの意図を読んでいて、慎重な態度を通しました。焦った西郷は挑発行為に出ます。岩倉の了承を得て「赤報隊」というテロ部隊を組織。隊長の相楽総三に江戸市中で放火、略奪、強姦、強殺を実行するよう命じます。今より倫理観が強かった江戸社会において最も罪の重かった蛮行で、このテロ集団を江戸の市民は「薩摩御用盗」と呼んで恐れました。赤報隊の大半は金で買われた無頼の徒で、総勢500人まで膨らんだとされます。
――赤報隊のテロに対して我慢の限界にきた、江戸を守護していた庄内藩は三田の薩摩藩邸を攻撃しました。
西郷は「手を打って喜んだ」といわれます。この攻撃を口実に翌慶応4年1月に鳥羽伏見の戦いが始まり、戊辰戦争が勃発します。西郷が正々堂々とした人物というのは、それこそ現代人の思い込み。目的のためなら殺人や強姦も辞さないテロリストとしか言いようがありません。この戊辰戦争で西郷らは徳川政権を滅ぼし、明治維新が成立したわけですが、その一番の功労者が無法者集団の赤報隊という厳然とした史実が残りました。
■日米の不平等は今の方が深刻
――その「赤報隊」も西郷に殺されました。
相楽以下の赤報隊は西郷の許可を得て、あちこちで「新政府になったら年貢が半減されるぞ」と宣伝し、農民の共感を集めました。ところが西郷はこの年貢半減を取り消し、赤報隊を「偽官軍」として追討したのです。年貢半減は相楽たちが勝手に触れ回ったものというのが西郷の言い分。相楽たち赤報隊は下諏訪と桑名で処刑されました。要するに相楽たちは利用されただけ。西郷にしてみれば、最初から赤報隊を使い捨てにする腹づもりでした。西郷という男はこうした非情なことを平然とやってのける神経を持っていたのです。
――こんな暴力的で非情な西郷がなぜ、「西郷さん」と尊敬されるようになったのでしょう。
明治新政府が庶民にあまりにも人気がなかったからです。国民は新政府に反感を抱き、その反動として政府に歯向かって西南戦争で戦死した西郷の人気が高まった。賊軍に拍手を送ったわけです。当時、できたばかりの東京日日新聞などが西南戦争で従軍取材を行い、それらの情報をもとに西郷をヒーローとして描いた錦絵が爆発的に売れた。中身は嘘八百で一種のエンターテインメント。しまいには、夜空に「西郷星」が現れたとまで書いた。実は大接近した火星にすぎないのに、庶民は西郷が星となって現れたと信じたのです。
――明治新政府もイメージ戦略をしたと聞きます。
黒船来航で幕府がオロオロし、ペリーに不平等な日米修好通商条約を押し付けられて、言われるままに署名したという先入観を国民に植え付けたのです。しかし実は日本側は最高35%の関税を課すことで米国側に合意させた。また、これに先立つ日米和親条約では、米国側の恫喝に屈せず、治外法権を断固として認めませんでした。徳川幕府にはこうした有能で肚のある外交官がそろっていたのですが、ほとんど知られていません。明治以降の政府が隠蔽したからです。
――現在の日本とは大違いです。
政権の隠蔽体質だけは全く同じです。いまの日本は米軍が居座り、日米地位協定を盾に好き放題されている。米軍機が事故を起こしても日本は警察権すら行使できない。米軍の無線局は日本の電波法の適用外。米軍は出入国管理法の適用を受けないので、国内に何人の兵士が在住しているかを日本側は全く把握できない。米軍関係者は高速道路を走るときに料金を払わなくていい。だから観光旅行で高速を走るときもタダです。そもそもJALもANAも日本の領空でも米軍の認めたルートしか飛べない。もし幕末の徳川官僚であれば、このような不平等条約に、毅然とした態度で「ノー」を突きつけたはずです。明治150年の今日、西郷神話の虚偽と、幕末の外交交渉の中身をきちんと検証するべきだと思います。
(聞き手=本紙・森田健司)
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