酒井忠次は三河の武士で、徳川四天王の筆頭といわれている。
家康より年長で、東三河の旗頭として活躍していた。一向一揆の時も、酒井家のなかでただひとり一揆側に参加せず、家康側で活躍した。
この頃は井伊直政はまだ幼少の時代であった。四天王といわれる井伊、本田、榊原、酒井は、江戸幕府成立時代である。
彼が頭角を現したのは、長篠の戦である。
長篠の戦は、よく信長の鉄砲戦術が成功したといわれるが、長篠城を取り囲んでいたいた武田軍を、宵闇にかくれて背後から攻めることを提案して実行した酒井忠勝の作戦により、武田軍を設楽原に誘きよせたから,鉄砲戦が効果をあげたのである。
その後の活躍で、四天王の筆頭と評価され、秀吉からは、東の酒井忠次、西の立花宗茂と評価されたが、家康からは、四天王のうちで最低の1万石の領地をもらっただけである。
長男、松平信康の切腹事件の責任者としての評価が最後までひびいたらしい。
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