講師は、火野葦平資料の会の会長 坂口博 氏で、中村哲の両親とも親交のあった人のようです。
現在では、中村哲さんが時の人であり、火野葦平さんはその伯父さんです。
私は偶然、このお二人に対面したことがあり、ふたりの似通った内気で真面目な性質を感じています。
私が小学生のころ、「土と兵隊」が有名となり、先生から火野葦平の名前や戦地の苦労話を聞いた記憶がありました。
戦後北九州の企業に就職して、労組の青年部文学仲間と活動していた頃(昭和25年頃)、公職追放中の火野葦平さんと飲み会をやろうということになり、会社のクラブに招待しました。
葦平さんは、弟子の小野という詩人を伴って現れ、我々は10名くらい集まって宴会となりました。
最初は口数がすくなく、戦地での苦労話などされていましたが、酒が廻ってくると次第に雄弁になり、文学論や社会論となり、最後は豊後浄瑠璃で渡辺綱の一席を見事に演じられました。
この縁で、追放解除後に発表された小説をよんだり、小説に出てくる若松の河童地蔵や、別府の高崎山のサルを見にいったり、本人の講演会に出席したりしていました。
吉塚ウナギ 葦平の書 |
また私の大学同級生のH君は若松出身で親分肌でしたが、「花と竜」の小説にでてくる玉井組のライバル組の血縁であることを知って驚きました。
さらに驚いたのは、火野葦平の自殺のニュースでした。
その後の追悼講演会などいくつか聴講しましたが、死因は不明のままのようです。
その後昭和45年に私は北九州から古賀市に住居を移しましたが、たまたま中村哲の姉さんの家の近くでした。
県立福岡高校から九大医学部を受験する時期には、実家の旅館「ひかり荘」は人の出入りが多くうるさいため、姉の家で勉強していたようです。
私が移住したころはもう九大の医学生でした。
姉のご主人は安川電機関連会社の西部電機の資材部長で、私も西部電機の技術顧問を務め、ゴルフ仲間でした。
中村哲氏が大学卒業後、医師として国内で勤務したあと、昭和59年からペシャワールに赴任し、ハンセン病の治療にあたるが、大干ばつにおそわれてから、井戸掘りや用水路建設など緑の大地計画を推進されたことは、周知のとおりです。
その間、日本で事業推進の費用集めのため、広報活動を多く展開されました。
私も古賀市での講演、母校福岡高校同窓会での講演を聴講しまし、それぞれ支援しました。
小学生時代に、古賀での昆虫採集や水路作業などの楽しい思い出が、ペシャワール赴任の動機につながっていたようです。
私も現役時代、JICA, KITAなどで、中近東の留学生の技術教育を10年くらい行い、現地での教育に行く予定の年は外務省の予算カットで実現しなかったが、アフガンへの関心はつよかったので、中村哲氏の死の無念さを痛感しています。
関係のある人物として、吉田家の子孫の学友がいたり、杉山家の子孫の同窓生がいたりしました。
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