清水芳太郎(1899~1941)は, 和歌山県那智勝浦町出身で早稲田大を卒業した。
清水は28歳の若さで福岡市の九州日報(西日本新聞の前身)の主筆兼編集局長に就任し、その後、社長を務めた昭和初期の言論人であった。
太平洋戦争が開戦した5日後の41年12月13日、東京から福岡に軍用機で移動中の飛騨山中で事故に遭い、42歳で死亡したとされる。後に福岡市に建立された記念碑にも、死亡場所は飛騨山中と刻まれた。しかし清水芳太郎の死亡場所が、最近定説の飛騨山中ではなく、静岡市だった可能性が明らかになったという。
亡くなる前年の1940年に九州日報の社長を辞任し、東京の理化学研究機関で「国家非常時に対処するための研究」に取り組んだ。東条英機の要請だったとされる。
言論人と同時に科学者の一面もあり、陸軍の要人だった東条英機が技術開発能力を、石原莞爾が思想を頼ったとする記録がある。
石原莞爾は清水について「識見と人格に深く敬服した」「著書は全部拝見し、私の講演は常に氏の卓見を引用した」と記した。
生前の著作:
日本経済革命論 (1933年)
第1-7巻 | |
部分タイトル | 第1巻 昭和改新の書 阿含経 人間の改作 孫子の兵法 第2巻 経済革新論 大東亜建設と政治経済準備 米の増収法 第3巻 建国読本 大日本建国 日本教 発明夜話 第4巻 古今偉人会議 日本産業戦略 第5巻 今後の東亜をどうするか 日本の政治 老子を読みて 第6巻 日本真体制 御聖徳と偉人 第7巻 一千九百九十九年 宗教談義 神詣り 釈尊の教義について |
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{さらに「八紘一宇」は二・二六事件の「蹶起趣意書」にも記載されていたために、軍事クーデターの原因となったとみなされがちですが、この事件が勃発するきっかけになったのも、農村の貧困問題でした。
特に東北で長年農業恐慌が続いたことに加え、1931年と1934年に大凶作が起こり、少女の身売りや欠食児童問題が深刻になりました。
これらを見ると、多くの人々が困窮して国が疲弊している時こそ「八紘一宇」の重要性が叫ばれていたという歴史的事実が浮かび上がります。
「八紘一宇」は混乱の時代にあって、人々を救済するスローガンだったと思うのです。}
と国会で説明しているそうです。
このような思想で、東条英機を説得していれば、大東亜戦争を防げたかも知れません。
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