2019年3月18日月曜日

聖徳太子ゆかりの町


奈良盆地を中心に、聖徳太子にゆかりのある町・遺跡の地図をしらべてみた。
生まれは明日香村の橘寺。



青年時代まで明日香村で過ごし、20代後半から斑鳩町に移りすむ。

摂政としての業務は明日香の小墾田宮のため、太子道(斑鳩・安堵・川西・三宅・田原本・樫原・明日香)を10年以上通った。
斑鳩から田原本町の間は、南北線より傾いているので、筋違い道とも呼ばれた。
https://ereki-westjapannavi.blogspot.com/2019/03/blog-post_16.html

斑鳩の西南の地区(龍田道沿線)にも、ゆかりの寺がが多い。


王寺町には達磨寺がある。
https://ereki-westjapannavi.blogspot.com/2019/03/blog-post_17.html
香芝町には尼寺廃寺跡がある。
https://ereki-westjapannavi.blogspot.com/2019/03/blog-post_54.html
さらに西南の太子町に、菩提寺となる叡福寺があり、母・妻とともに眠っている。
https://ereki-westjapannavi.blogspot.com/2019/03/blog-post_18.html

この路線(龍田道)も傾いているので、筋違い道と呼ばれることがあり、太子の葬送道ともよばれる。



斑鳩と飛鳥と太子町の範囲をあらわした現在地図はつぎの通りである。



奈良盆地以外では、大阪の四天王寺、播磨の太子町、四国の道後温泉などが太子ゆかりの場所として有名である。
わたしが訪問したのは、明日香村周辺、斑鳩町周辺、播磨の太子町、道後温泉周辺である。
最近では、北海道の知床半島や、四国の松山にも、太子をまつる観音堂ができたようだ。

叡福寺と北古墳

叡福寺と右奥に北古墳

叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院
すぐ横に、聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながのはか〉)があることで知られる。
山号は磯長山(しながさん)、本尊如意輪観音である。
開基(創立者)は、聖徳太子または推古天皇とも、聖武天皇ともいわれる。



宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。叡福寺北古墳について、宮内庁では第31代用明天皇皇子・第33代推古天皇皇太子聖徳太子(厩戸皇子)に治定している。
考古学的にも厩戸皇子の墓の可能性は高いとされるが、棺3基が認められることから、厩戸皇子に加えて皇子と同時期に亡くなった穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのおうじょ、用明天皇皇后で皇子母)・膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ、皇子妃)ら3人の合葬墓(三骨一廟)とする説が有力視される。
叡福寺伝によると、724年(神亀元)の創建と伝えられ、既存の古墳の祭祀のために、新たに建造されたようだ。 
聖徳太子は本尊の如意輪観音像、母は阿弥陀如来像、妃は勢至菩薩像で、太子の16歳像も祀られている。
太子の生まれは、旧暦1月1日、没年は2月22日とされ、現在は新暦の3月22,23,24日に法要が行れている。聖霊会では、10年に一度盛大な法要がおこなわれる。浄土真宗では、4月8日の釈迦生誕の日と併せているようだ。

2019年3月17日日曜日

尼寺廃寺跡




巨大な心礎が埋まる国指定史跡『尼寺廃寺跡』
 @香芝市(王寺町との境界近く)



●飛鳥時代(7世紀後半)に創建された寺院跡。奈良時代の後半まで存続した後に廃寺になる。
●聖徳太子が建立した「葛木寺」跡とも言われている。

 この地区は、聖徳太子により土地開発や水利改善が行われ、平和な田園がひらかれた場所のひとつとされている。
●伽藍配置は「法隆寺式」。北に金堂、南に塔、東に中門を配置し、回廊で囲んでいる。


●塔跡の調査で、日本最大級(約3.8m四方)の「心礎(しんそ)」が見つかった。
●心礎に柱を立てた「柱座」の部分から、耳環・水晶丸玉・ガラス丸玉など、多彩な舎利荘厳具が出土。


注目されたのは、巨大な「心礎」。基壇下に埋められて塔を支えた石材だが、約3.8m四方・厚さ1.8mもある、8畳間ほどもある巨大な石を使っている。そのまま埋め戻されていて、実物を見ることはでないが、足の下にそんな巨石があるかと思うだけで驚き!

中央の花びら型のようにも見える「柱座」は、太い心柱と、その周囲に4本の支えの柱を据えたもの。ここには湿気防止のためと思われる木炭が敷き詰められていて、その上からガラスや水晶などの荘厳具が埋められていた。
http://small-life.com/archives/14/06/2420.php
https://katsuragi-kanko.com/cinema-pj/movie/kashiba02.html

達磨寺(だるまじ)


達磨寺(だるまじ)は、奈良県北葛城郡王寺町にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は片岡山。本尊は、千手観音達磨禅師・聖徳太子。 


 王寺町の達磨寺は、我国最初の勅撰歴史書「日本書記」に推古天皇21年(西暦613年)のくだりに聖徳太子伝記中最も著名な「片岡山飢人御慰問」が登載されている。それは、その年の12月1日太子が片岡山のほとりに住む道人を訪ねるべく進んで居られるところ道端に飢えと寒さに息絶え絶えの人が座って居り何故か乗って居られた黒駒がピタッと脚を止め進もうとはしない。太子は、ふと名状しがたい感じに打たれ思わず馬より降り、飢人に近寄られ名を尋ねられたが、最早や力も尽きて居ったのか、答えがなかった。太子は、哀れに思われと食物の飲物を与えられ、寒さに震えている飢人に着て居られた紫の御袍をお脱ぎになり手づから着せかけられ”安らかにお休みなさい”と仰せになり心を残し乍らその場を立ち去られ、翌日飢人の様子を視されられたところ、その飢人は既に死んで居り太子は大いに悲しまれ、その場に手厚く葬られ後、人々は達磨墳と呼んだと言うのが、王寺達磨寺の起源である。

飢人が達磨であったとされたのは、仏教には輪廻転生思想あり、我国第一の仏教興隆の功績を残された太子は、法華経の尊信者であり、法華経を正依とする中国天台宗の祖思師禅師は、同時代の高僧であり太子の前身と信じられるようになったのは、中国の衡州衡山道場にて達磨は、思師禅師に”東海に生まれ更りて正法を宣揚すべし”勧めなされる物語より生じたものであり、一足先に日本に渡り太子誕生まで奥州待島(松島)待ったと云う伝承あり。この事は、天台も禅も其の源は一つであり、片岡山辺りで両者が対面する事は、衡山道場で既に約束されて居ったとされ、強い興味が感ぜられる・元より史実の点からは当然否定されるべきであろうが、当時の日中両国仏教との真摯な宗教的願望であり、比叡山に大乗戒壇を開いた天台宗最澄の大乗仏教一乗思想に合理性を与え、鑑真和上来日の動機にもつながると云われる飢人伝説により創建された王寺の達磨寺の存在は、日本仏教史上貴重なる存在である。



達磨寺2号墳



松永久秀の墓

達磨寺の境内には達磨寺1号墳・2号墳・3号墳と称される3基の古墳(6世紀頃の築造)が存在し、このうちの3号墳の上に本堂が建てられている。この古墳は平安時代には聖徳太子ゆかりの達磨禅師の塚であると信じられていたようである。

寺院としての形態が整うのは鎌倉時代以後と思われる。 

境内には戦国武将の松永久秀の墓もある。

2019年3月16日土曜日

聖徳太子道(筋違い道)

聖徳太子が通ったとされる飛鳥時代の道

飛鳥の時代、聖徳太子が飛鳥と斑鳩の間を十年以上にわたり通った道。
太子の住んだ斑鳩町から、三宅の原を経て、飛鳥宮を結ぶ全長約28km。古代は「筋違道」と呼ばれる古代官道のひとつだった。

この道は、条里制の南北方向の地割りに斜交していて、別名「筋違道」。中世以降は、「法隆寺街道」とも呼ばれた。


通過した街:
  斑鳩町・安堵町・三宅町・田原本町・橿原市・明日香村

筋違い道の詳細経路: 法隆寺から田原本町まで

(1)図:法隆寺駅(JR)・・・伊弉冊命神社・・斑鳩大塚古墳・・・国道25号・・業平姿見の井戸・日切地蔵(継子地蔵)・・・法隆寺松並木・・南大門・・中門・・東大門・・夢殿・・・駒塚古墳・・・調子丸古墳・・・新業平橋(富雄川)・・業平橋(富雄川)・・高安地区・・・安堵第二踏切(JR関西本線)(安堵町)・・・善照寺・・・広峰神社・業平姿見の井戸・・・安堵町水道課・・・飽波神社・太子腰掛石・・天神社道標・・・富本憲吉記念館・・大寶寺・・極楽寺・・天神社・・・高塚・・(西名阪自動車道)・・・(岡崎川)・・・杵築神社・・・馬場塚・・・
(2)図: 常徳寺・・下街道合流地点・・馬場尻橋(新太子橋・大和川)・・下街道分岐地点・(川西町)・・・南陽善寺・・・杵築神社・・・油掛地蔵・・・梅戸橋(寺川)・・・井戸橋(寺川)・・・糸井神社・・・宮前橋(寺川)・・面塚碑・・(三宅町)・・白山神社・太子腰掛石・太子像・・杵築神社・矢尻の井戸・・・忍性生誕地碑・・・万葉歌碑・・・融観寺・・・(田原本町)・・・黒田第2号踏切(近鉄田原本線)・・・法楽寺・孝霊天皇黒田盧戸宮跡・・・黒田大塚古墳・・・浄照寺・・・孝霊神社・・黒田池・・・(京奈和自動車道)・・・宮古地区・都村道路元標・・・地蔵祠・・・鏡作伊多神社・・・保津の環濠集落・・鏡作伊多神社・・・(県道14号)・
(3)図:・・飛鳥川沿い・・・多神社・・・(橿原市)・・・新ノ口池・
(4)図:・・近鉄大阪線ガード・・・地黄橋(飛鳥川)・・・入鹿神社・・・春日橋(飛鳥川)・・・内膳大師堂・・・踏切(近鉄大阪線)・・踏切(近鉄橿原線)・・・大和八木駅(近鉄大阪線):

各地区の経路図:
(1)図:斑鳩町~安堵町

(2)図: 川西町~三宅町~田原本町

(3)図:田原本町~橿原市

(4)図:橿原市~明日香村

(5)図:明日香村


現在、北は斑鳩町高安あたりから中街道と合流する橿原市新ノ口付近までの約13.5kmが、道路や畦道として残っている。
また、川西町結崎から近鉄黒田駅付近を経て田原本町宮古までの一部区間、約3kmほどが斜めにまっすぐな道としてはっきり残る。
参考資料:
http://www3.pref.nara.jp/miryoku/aruku/secure/2308/map.pdf
https://www.its-mo.com/detail/KNK_ZPOI-J00000000000A3902361/
http://www.nantokanko.jp/kokaidou/182.html

2019年3月10日日曜日

東大寺の「お水取り」

若狭の「神宮寺」から東大寺に行かれた「実忠」というインド僧がいました。

実忠和尚は東大寺で二月堂を建立し、大仏開眼の2ヶ月前から修二会を行っていました。
その2月の初日に全国の神を招待されたのですが、たくさんの神が参列されたのに、若狭の遠敷明神だけが漁に夢中になって遅れました。

2月12日(旧暦)の夜中1時過ぎにようやく参列されました。
そのお詫びにと若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水(あかみず)を送ると約束をされました。

その時、二月堂の下の地中から白と黒の鵜が飛び出てき、その穴から泉が湧き出たのです。

それを「若狭井」と名付けて、その水を汲む行事が始まりました。


若狭の神宮寺では、お水送りという行事が事前におこなわれるそうです。

2019年3月8日金曜日

長谷寺式十一面観音菩薩像


弥勒菩薩像(博多織)

中西式電気博多織作品で、広隆寺の半架弥勒菩薩像の作品は有名なので、額縁にいれて飾っていたが、いま1枚の仏像作品は、仏像名不明のため倉庫に保管していた。

十一面観音菩薩像(博多織)
最近仏像の種類を調査しはじめて、やっと奈良(桜井市)の長谷寺式の十一面観音菩薩であることを発見をした。これも飾ることにしよう。
https://butsuzou.com/list/11men3.html

身丈10メートルを越す我国最大の木造仏で、右手に錫杖と念珠、左手に蓮華をさした水瓶持ち、石座の上にたっている。

長谷寺十一面観音像の最大の特徴は、本来は地蔵菩薩が持つべき錫杖を右手に持つことで、これは人々を救って遊行する地蔵菩薩の徳をも備える意味を持つ。
長谷寺の十一面観音像
普通、観音像は框台上の蓮華に立つが、長谷寺十一面観世音菩薩像は磐石座(ばんじゃくざ)に立つ。この磐石座は山肌の自然の大岩石で観音の浄土である補陀落山(ふだらくさん)と繋がっているという。
長谷寺という名の寺院が全国には100カ寺以上あるという。長谷寺十一面観音像の霊験の広がりと共に広まったもので、長谷寺の十一面観音像と同じ霊木で造ったという仏像が多数あるようだ。
長谷寺式十一面観音
福岡県の鞍手町にも、長谷寺があり大きな十一面観音像があるが、この像は持ち物が少し異なっている。
鞍手の長谷観音像