慶長七年(1602)4月11日は、徳川家康が島津義久の本領を安堵、忠恒(家久)の相続を認め義弘の赦免を誓約する。
慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原において西軍に加担していた島津義弘は壮絶な敵中突破を行って戦場からの離脱に成功、苦労を重ねて本国にたどり着きます。
慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原において西軍に加担していた島津義弘は壮絶な敵中突破を行って戦場からの離脱に成功、苦労を重ねて本国にたどり着きます。
しかし島津氏の戦後処理はこれからはじまります。
しかし当時の島津氏には複雑な事情があり、関ヶ原合戦の西軍加担にしても、家中一丸となってのものではありませんでした。
その一番の原因は、義久に男子がなかったことから生じた後継者問題でした。一時は義久の三女・亀寿を娶った久保(義弘二男)が跡嗣ぎとなりますが、久保は文禄役中に病没したため、義弘三男の忠恒(のち家久)が亀寿と再婚の上で当主となりました。
しかしこれらは豊臣政権の強い意向が働いたことによるもので、豊臣政権は義久より義弘を重視したため、家中の分裂を引き起こす結果となっていました。
加えて関ヶ原合戦後には、同じく西軍の主将格として参陣していた宇喜多秀家が、島津領内に落ち延びてきたこともあり、対応を一歩間違えると滅亡の危機をはらんでいました。
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