3代藩主光之1654年-1688年は、藩儒貝原益軒に命じて黒田家正史の『黒田家譜』を編纂させた。
それまでの保守的な重臣を遠ざけて新参の鎌田昌勝や立花実山を家老として新たに登用し、藩士の序列統制や幕末まで続く福岡藩の政治体制を整えたといえる。
4代藩主綱政1688年-1711年は、東蓮寺藩主から福岡藩主となった。第二の黒田騒動と呼ばれる御家騒動が起きる。
5代藩主宣政1711年-1719年は、生来病がちであり領地筑前に中々入ることができず、叔父の直方藩主・黒田長清が代理として藩政を助けた。
6代藩主継高1719年-1769年は、直方藩より本藩の養嗣子となったため直方藩は廃藩となった。このため所領4万石は福岡藩に還付され、石高は47万3千余石となり廃藩置県までこれが表高となった。藩祖孝高の血統としては最後の藩主。
7代藩主治之1769年-1781年は、御三卿・一橋徳川家からの婿養子で、8代将軍徳川吉宗の孫にあたる。養父の継高は黒田一門、重臣達と協議の上、福岡藩の永続を優先に考え、徳川家から養子を迎えた。
8代藩主治高 1782年-1782年は、婿養子(末期養子)として多度津藩・京極氏から迎えたが早世し、妻子も無く1代限りの藩主であった。
9代藩主斉隆1782年-1795年は、御三卿・一橋徳川家からの婿養子。11代将軍徳川家斉は同母で実兄である。天明4年(1784年)に修猷館(しゅうゆうかん)、甘棠館(かんとうかん)の藩校2校を興した。
そのうち修猷館は福岡県立修猷館高等学校として現在も福岡県教育の主導的地位を誇っている。
10代藩主斉清1795年-1834年は、江戸時代後期、蘭癖大名として世に知られ、肥前長崎の黒田家屋敷に何度も往来して見聞を広げている。
11代藩主長溥1834年-1869年は 、薩摩藩・島津氏からの養継嗣。正室は斉清息女、純姫。父や養父と同じく蘭癖大名であった。
12代藩主・初代知事1869年-1869年長知は、伊勢津藩・藤堂氏からの養継嗣。能楽を好み、多くの能楽師達を支援した。最後の筑前福岡藩藩主。初代福岡知藩事となった。贋札事件により廃藩置県に先立って解任。
2代知事有栖川宮熾仁親王は、解任された長知に代わって最後の知藩事に就任。まもなく廃藩置県を迎える。
明治天皇のご意志で、明治元年5月1日付の太政官布告で(嘉永6年=1853以来の)「国事ニ斃レ候諸士及ビ草莽(そうもう)有志」を「東山の佳域」すなわち霊山を聖域として、殉国の志士が祀られることになりました。
木戸孝允・松子夫妻を始め、坂本龍馬、中岡慎太郎ら、祀られている3100余柱のうち墓碑(合葬墓を含む)の確認されているのは386柱です。
主な志士は、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎、武市半平太、木戸孝允、梁川星巌、徳川斉昭、梅田雲浜、真木和泉守、平野国臣、橋本左内、頼三樹三郎、中山忠光、伴林光平らです。
昨日は顕彰会福岡県支部の講演会で、「幕末・明治ー激動の福岡地方史」シリーズのなかで、幕末の黒田藩主、藩校、人材の話でした。
昨年からのシリーズで、平野國臣、加藤司書などは既に紹介さらたのか?触れられずに、金子堅太郎、団琢磨など黒田藩派遣海外留学生の話でした。松下嘉一朗など日本人ではじめてスイスに留学し、後に福岡市長になった人物もいました。
留学後、東大教授の要職につきながら、黒田藩に対する偏見で迫害され、自殺した人や地方の大学に移った人の話などは、初めて耳にしました。
黒田長溥 |
11代藩主黒田長溥(斉溥)は、9代島津藩主、島津斉宣の末弟で、黒田家の養子にはいった人物です。
ぺりー来航のときには積極的な開港論(貿易立国論)を建白したくらいに先見性をもっていたし、長崎に留学生を派遣し、洋式技術の導入に努め、東中洲には精錬所・反射炉をつくり、外国から蒸気船を購入し、様式軍隊の訓練を取り入れたりしました。
一時は薩長同盟の動きを模索していたが、倒幕論までの決意がなく、西郷らの薩長同盟締結の3ケ月前に、乙丑の獄で加藤司書、月形洗蔵らの尊攘派を処分したため、明治政府から軽視される結果となってしまったようです。
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