今日4月10日は後藤又兵衛基次が後藤基国の二男として播磨姫路南山田に生まれた日。
(後に黒田家の猛将として数々の戦いに活躍、後に大坂の陣で壮絶な戦死を遂げた後藤又兵衛基次。)
この日播磨別所氏配下の土豪・後藤将監基国の二男として姫路南山田に生まれました。幼名は弥太郎、長じて又兵衛のち隠岐守を称します。
播磨後藤氏は羽柴秀吉の中国侵攻により所領を失いますが、又兵衛は黒田孝高のもとで養育されました。しかし母の兄・藤岡九兵衛が逆心を抱いたため黒田氏から警戒され、又兵衛は天正九年(1581)に秀吉の臣・仙石秀久に預けられます。
同十三年に孝高から呼び戻される形で再び黒田氏の臣となります。知行はわずか百石で栗山利安(大膳)の配下としての待遇でしたが、黒田氏の臣となった又兵衛は持ち前の才気を発揮して活躍、次第に重く用いられるようになります。
黒田の中津藩時代に彼が居た豊前伝法寺には又兵衛屋敷跡といわれる場所があり、これは中津藩時代に築上郡の治安を又兵衛に命じていたので、ここに滞在していた屋敷跡らしいです。
こちらは、10年くらい前には竹林であったが、今は整備されて駐車場となっています。
黒田の中津藩時代に彼が居た豊前伝法寺には又兵衛屋敷跡といわれる場所があり、これは中津藩時代に築上郡の治安を又兵衛に命じていたので、ここに滞在していた屋敷跡らしいです。
こちらは、10年くらい前には竹林であったが、今は整備されて駐車場となっています。
又兵衛の名を世に広く知らしめたのは、文禄の役における第二次晋州城攻撃の際のことでした。
又兵衛はこの戦いで「亀甲車」なる木製の人力戦車を操り、加藤清正の重臣・森本儀太夫や飯田角兵衛らとともに一番乗りを果たします。
又兵衛はこの戦いで「亀甲車」なる木製の人力戦車を操り、加藤清正の重臣・森本儀太夫や飯田角兵衛らとともに一番乗りを果たします。
その後の関ヶ原合戦では、後藤又兵衛と斉藤甚右衛門は、大阪に人質として捕らえられていた長政夫人を苦労して救い出したのが大きな功績とされています。
関が原戦の後に長政が筑前一国五十二万石を与えられ福岡に入部すると、又兵衛は筑前益富城(大隈城:福岡県嘉穂町)代として一万六千石を領しました。
関が原戦の後に長政が筑前一国五十二万石を与えられ福岡に入部すると、又兵衛は筑前益富城(大隈城:福岡県嘉穂町)代として一万六千石を領しました。
益富城石垣 |
益富城地図 |
益富城跡と小川県知事 |
しかしその後平和が続くうちに、長政との折り合いが悪くなり、黒田孝高が没した二年後の慶長十一年(1606)には、ついに又兵衛は黒田家を退去、長政と仲が悪かった小倉城(北九州市小倉北区)の細川忠興を頼ります。
忠興は喜んで迎えますが、激怒した長政から強硬な「奉公構え」(再仕官させない処分)の横やりが入り、結局又兵衛は以後八年にわたって浪人し、行橋の西福寺に匿われる身となりました。
ここには彼の槍や遺品が残されています。豊前はかって又兵衛が居住していた地域で、支援者が大勢いたものと思われます。
ここには彼の槍や遺品が残されています。豊前はかって又兵衛が居住していた地域で、支援者が大勢いたものと思われます。
同十九年、豊臣秀頼の求めにより大坂城に入った又兵衛は、真田幸村や長宗我部盛親らとともに大坂方の将として活躍、冬の陣では徳川方を悩ませました。
翌年の夏の陣では河内道明寺で伊達勢と壮絶な戦いを繰り広げますが、萩野半之丞の銃弾を浴びて壮絶な最期を遂げています。墓は何箇所かにまつられています。
九州では中津市耶馬渓地区にあります。
翌年の夏の陣では河内道明寺で伊達勢と壮絶な戦いを繰り広げますが、萩野半之丞の銃弾を浴びて壮絶な最期を遂げています。墓は何箇所かにまつられています。
九州では中津市耶馬渓地区にあります。
後藤又兵衛の墓 |
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