今日はその現地説明会にでかけた。
以前に見学した船原古墳(装飾古墳)のすぐ近の農地で、田圃の区画整備事業の工事中に発見されたという。
船原古墳の馬具は木製部分は腐敗して金属部分だけが散乱して残っているので、素人がみてもよく解からない形状をしているが、白色に近い金色の金属だけは輝かしいものだ。
藤の木古墳の馬具は、古墳の石室のなかに置かれていて、男女二人の遺骨の後に入れられてものだったので、その埋葬者と馬具の関係をいろいろ歴史家や小説家が推測しているが、船原古墳の埋葬者はまだあまり議論されていない。
この周辺には谷山神社や小山田斎宮、聖母屋敷跡があり、谷山川の上流域だから、古代から多くの住民がすみ、有力豪族が存在していた可能性が高い。船原という地名から、船で海岸まで容易に出入りできた場所だったであろう。
考古学的な年代推定は580~620年位で、磐井の乱の後の時代だから、磐井を制圧した物部の一族か、磐井一族の残留者か、または糟屋屯倉の管理者となった舂米連の一族が住み着いたのか、或いは谷山銅山の採掘関係者の集団か、色々考えられる。
行政区画上は谷山と小山田の境界に近いので、鉄塔の向こうにある小山田の丘周辺を調査すれば、まだ多くの遺跡が埋蔵されている可能性は大きいと思われる。
吉住市議のとられた写真の奥に、われわれ夫婦が写っていた。
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