2013年4月8日月曜日

豊前長岩城の野仲鎮兼滅亡の日4月8日(1588)

 黒田孝高が豊前下毛郡長岩城の野仲鎮兼を滅ぼした日。 (お釈迦さまの誕生日、飛鳥大仏完成の日なども)
 
   天正十五年(1587)六月、豊臣秀吉は圧倒的な兵力で島津氏を下して九州を平定、翌月黒田孝高は恩賞として豊前国内中津郡・京都(みやこ)郡など六郡十二万三千石余を与えられました。

 豊前国は周防大内氏と豊後大友氏のちょうど中間に位置するため、戦国期の豊前は大内・大友両氏による軍事衝突も多く、在地国人衆の抱き込み合戦が繰り広げられていました。
 在地国人衆の連合体、すなわち一揆は新参の支配者に敵意をむき出しにする場合が多く、孝高も治安に苦労しました。
 
 孝高は少しずつ国人衆を帰服させていきますが、隣の肥後では大規模な一揆が蜂起します。
 肥後には佐々成政が入っていましたが、検地を巡るトラブルから八月になって隈部親永・菊池武国・甲斐親秀らが成政に反旗を翻し、窮した成政は豊前の黒田孝高や筑後柳川の立花宗茂に救援を求めます。
 宗茂は直ちに救援に馳せ向かい、自分も負傷するほどの奮戦、孝政も毛利隆景、毛利吉成らとともに救援に向かい、一揆は鎮圧されます。しかし秀吉は成政の失政を怒り、翌年成政に死を与えています。
 しかしその隙を衝いて豊前の城井谷の宇都宮鎮房を筆頭に、野仲鎮兼・中島純次・加来統直・犬丸越中守ら豊前の国人衆が一斉に蜂起したのです。
 急ぎ豊前に戻った孝高は国人衆の各個撃破を開始、この日野仲鎮兼を滅ぼしました。
 宇都宮鎮房もこの間一旦降伏したものの、孝高の留守中に不穏な行動を起こしたため四月二十日に長政の手により中津城にて謀殺されます。
 さらに長政の追撃により城井谷城(福岡県築上町)も焼き落とされ、ここに名族宇都宮(城井)氏は完全に滅び豊前は平定されることになります。

1 件のコメント:

  1. 最近、野仲氏に従ってともに滅亡した小友田氏伝来の古文書を入手しました。「永正九年の野仲興道判物」「永禄七年の野仲鎮兼判物」「天正六年の野仲鎮兼加冠状」の三通です。死を覚悟して巨大権力に立ち向かった豊前の国人衆の心意気のつまった古文書を手にすることができ、その不思議な縁に感謝しています。

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