筑前立花城(福岡県新宮町)は博多の北北東、直線距離にして約八キロメートルの位置にある山城で、戦国期には幾度となく争奪戦が繰り広げられました。私の家から1Kmくらいの山城。
元々は大友貞載(のち立花氏を名乗る)によって築かれた城でしたが、日本屈指の貿易港・博多をもつ筑前支配の重要拠点であり、立花城をめぐる戦いは博多の利権争奪戦と言って良いでしょう。
1)これにまず目を付けたのが周防大内氏でした。天文元年(1532)三月、大内義隆は立花親貞の拠る立花城攻略に成功、これより大内氏の支配するところとなりました。
2)しかし義隆が同二十年九月に陶晴賢の謀反により長門深川の大寧寺に滅ぶと、三年後に大友氏は立花城を奪回、守将として立花鑑載を入れました。
3)しかし永禄十一年(1568)になって立花鑑載は毛利と通じ、大友氏に反旗を翻します。これは主君大友義鎮(宗麟)の乱行に反発したものですが、宗麟は直ちに戸次鑑連・臼杵鑑速・吉弘鑑理ら豊州三老に三万の兵を与えて立花城攻撃を命じます。
毛利も急ぎ清水左近将監らを救援に向かわせ、さらに吉川元春・小早川隆景らにも出陣を命じます。
小早川隆景 |
4)立花城奪還を目指す毛利は、翌十二年(1569)になって吉川元春・小早川隆景らに四万の兵を与えて出陣させ、この四月十五日一斉に攻撃を開始しました。
大友勢は戸次鑑連ら主力が肥前で龍造寺隆信と交戦中でしたが、鑑連は急遽和議を結び筑前へと軍を返します。
総勢10万の九州最大の合戦が半年以上続き、遠矢原で火縄銃を使った近代戦が展開されました。
鉄砲戦としては、信長の長篠戦よりも6年早い時代です。
場所は唐原から香椎の浜男の間らしく、遠矢は弓矢より遠くに飛ぶ鉄砲の名称で、これが唐原になまったようです。
城方も懸命に防戦しますが、毛利勢の重囲により兵糧が尽き、遂に開城しました。
5)念願の立花城奪回を果たした毛利でしたが、地元で再起を図る尼子勝久の挙兵や大内輝弘の蜂起など、出雲・周防で重大事件が勃発したため、大友氏との衝突を避け、浦(乃美)宗勝らにわずかの兵を与えて城を守らせ本国へと退陣しました。
6)この後元亀元年(1570)二月、またもや立花城は大友氏に帰し、一連の戦いで戦功を挙げた戸次鑑連が城督として入りました。
7)秀吉の九州平定後に小早川隆景が筑前入りをして、立花城に入ったあと、名島城を本拠ととしますが、浦宗勝は立花城の城代として働き、この地に没して、宗勝寺に葬られています。黒田官兵衛、長政父子が福岡入りするのは、その後30年あとのことです。
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