ここには黒田藩主の別館である御茶屋が設けられていた。
唐津街道から少し海辺の風光明媚な場所にあり、藩主は参勤交代のとき、福岡城からここまでは正装できて一泊し、ここで旅装に着替えて旅路をいそいだという。
御茶屋跡の地図 |
安政5年に勝海舟の咸臨丸を博多湾に呼んだときは、ここで海舟やオランダ将校を接待し、慶応2年に英国軍艦が入湾した時にもここで接待した。
当時は外人用にわざわざ客間の鴨居を高く改造したという。
わたしのうまれた場所に近いが、今は石碑があるだけで当時の面影を伝える風景は何も残っていない。
旧御茶屋跡の碑 |
一光寺本堂 |
カッテンディーケは、安政5年の10月18日(日付は旧暦)、福岡に来航した。咸臨丸、エド号での訪問だったが、これは福岡藩第11代藩主黒田長溥ながひろ(筑前侯)のかねての望みにより計画されたもの。薩摩に劣らぬ福岡。蘭癖らんぺき大名の長溥とすれば、薩摩の斉彬が進めた技術立国の意志を藩内にアピールする狙いがあったのではないだろうか。
長溥は一行の訪問を大歓迎した。その象徴として、出迎えに8頭の立派な馬を用意するほど。初めて異人を目にする見物人も大勢押し寄せ、その数は数千にも及んだという。昔も今も、福岡・博多の人々の「新しもの好き」に変わりはないようだ。
一行の滞在は、10月21日までだが、先述の著書を読み進むと、藩侯の邸にあいさつに出向き、博多の町を散歩している。それはまるで、オランダに帰ったのではないかと錯覚を覚えるほど、との記述がある。下屋敷のある「箱屋津」までは海岸沿いに美しい松並木の道路が延び、(オランダ東部の州)ヘルダーランドの風色を想起したとカッテンディーケは絶賛した。
この箱屋津の下屋敷で思い浮かんだのが通称「お休み所御亭(オチン)」。参勤交代の諸大名、重臣や幕府要人の宿泊、休憩に利用され、茶室からは箱崎松原、博多湾を一望できたという。長崎出島のオランダ商館長の江戸参府は大名と同じ扱い。カッテンディーケも長溥から箱屋津に招かれ、鶴や鴨肉、刺身という豪勢な食事のもてなしを受けた。
下屋敷(御茶屋)があったと思われる箱崎(福岡市東区)を訪ねた。近在の方々が「お天神さま」と親しむ網屋天満宮一帯がそれになる。近年、再開発が進み、マンションが立ち並ぶが、ここだけは時間が止まったかのような安堵あんど感、懐かしさを覚える。九州大学構内から移設した「鯨塚」(博多湾で捕獲した鯨を慰霊する碑)もあり、海が近かったことが実感できる。
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