2020年10月22日木曜日

韓国南西地区の倭系古墳(改訂)

カルチャーラジオで、高田貫太氏による5世紀頃の韓国南西地区にある倭系古墳の紹介がされていた。高田貫太さんは1975年生まれ。岡山大学文学部、同大学院を経て韓国の慶北大学校大学院考古人類学科博士課程修了。現在は国立歴史民俗博物館研究部准教授・総合研究大学院大学文化科学研究科准教授。著書に『古墳時代の日朝関係』、『海の向こうから見た倭国』などがある。





ラジオでは、地名や古墳名の文字や地図がわからないので、ネット検索でしらべてこれらを補足した。
倭系古墳は光州地区、高興郡地区、海南半島地区、栄山江流域などにある。





光州光山区月渓洞(クァンジュ・クァンサンク・ウォルゲドン)古墳群などで発見された前方後円墳は、韓半島の伝統の古墳の様式とは全く異なる。

名前のとおり前面は台形、後方は円形で作られた鍵形の墓だ。日本の古墳時代の墓の典型的な様式だ。






高興郡 野幕(やまく)古墳は、丘陵の頂部、海抜35m、24mの円墳。


雁洞(あんどん)古墳は、36mの円墳、


外島1号墳は、23mの円墳、


ベノルリ3号古墳は、8m*6.4mの小円墳、

 

埋葬施設、


野幕古墳の竪穴式石室は、平面長方形で控え積み、福岡七夕池古墳と関連が高い、





ベノルリ3号古墳は、北部九州の石棺系竪穴式石室と酷似、

 

 

副葬品、、倭との関連性、


いずれにも、倭系の帯金式甲冑が副葬、武器・武具は、倭から移入された可能性あり、


 

 

副葬品、百済との関連性、


金銅製冠帽・飾履は、百済の王都・漢城製、

 





5世紀前半の全羅南道高興郡(チョンラナムド・コフングン)の雁洞(アンドン)古墳と

野幕(ヤマク)古墳は、墳丘の表面に石を敷く葺石施設で、日本式の大刀や鎧などの遺物が

出て、墓の主が日本人であることを物語る。




日本の学者はこれらの古墳を根拠に「任那日本府説」の証だろうと推定したり、海上交通を基盤とする地域集団、と考えたりした。

しかし韓国の学者は、「墓の形態が一定の系統なく5~6世紀に集中的に現れて消えた」とし、「倭系古墳の主は韓半島で支配的な勢力ではなく、一時的に活動した傭兵階級と見るほかはない」と主張している。

客観的にみて、5 世紀前半頃に造営された西・南海岸地域の「倭系古墳」を構成する諸属性を検討すると,臨海性が高く, 北部九州地域における中小古墳の墓制を総体的に採用している。よって,その被葬者はあまり在地化はせず に異質な存在として葬られたと考えられ,倭の対百済,栄山江流域の交渉を実質的に担った倭系渡来人とし て評価できる。そして,西・南海岸地域の在地系の古墳には,多様な系譜の副葬品が認められることから, 海上交通を基盤とした地域集団の存在がうかがえる。倭と百済,または栄山江流域との交渉は,このような 交渉経路沿いの要衝地に点在する地域集団の深い関与のもとで,積み重ねられていたと考えられる。

 5 世紀後葉から 6 世紀前半頃,栄山江流域に造営された前方後円墳と,在地系の高塚古墳には,古墳の諸 属性において共通性と差異性が認められる。

これまで両者の関係は排他的もしくは対立的と把握される場合 が多かったが,いずれの造営集団も,様々な交通路を利用した「地域ネットワーク」に参画し,倭や百済か らの新来の墓制を受容していたという点において,併存的と評価すべきである。

したがって,前方後円墳か 在地系の高塚古墳かという違いは,諸地域集団の立場からみれば,新来の墓制に対する主体的な取捨選択の 結果,ひいては百済中央や倭系渡来人集団との関わり合い方の違いの結果と評価できる。

私が訪ねた古墳はいずれも倭系ではない円墳であった。







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