箱崎八幡宮の参道は、放生会の祭りの時は人があふれるが、いつもは閑散としている。
博多湾の海に向かっており、海岸の砂浜は、お潮井とりの場所で有名である。
そこから振り返って本殿の方をみると、その先に三郡山が見える。
この位置を地図で示すと、下図のようになる。
北西方向の延長線は朝鮮半島の任那か扶余あたりになりそうだ。最短では馬山市(合浦)で、元寇の船団が出発した港である。
南西方向の延長線は日田や久住のあたりである。
歴史的に、または地政学的に、なんらかの意義があるのだろうか?
元寇時代に活躍した大友頼泰が、この参道を部下と共に進軍している図。竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」
大友 頼泰(おおとも よりやす)は鎌倉時代中期の武将・御家人。大友氏3代当主。
それまでは御家人として京都や鎌倉で活動していたが、第8代執権・北条時宗(時頼の子)の代になって元寇の危機が強まると幕命により鎮西東方の奉行に任命され、文永9年(1272年)の初めには豊後国へ下向して、少弐氏と共に九州の軍政を担当した。
文永11年(1274年)の文永の役では鳥飼潟の戦いで元軍を破り、元軍の侵攻を阻止した。
弘安4年(1281年)の弘安の役では志賀島の戦いで奮戦して金方慶や洪茶丘らが率いる元軍に大勝し、元軍を志賀島から駆逐した。
その後は高齢のため、隠棲したと言われている。
参道を通る大友頼泰軍の図 |
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