斑鳩の藤ノ木古墳の被葬者については諸説あった。
当初は男女ニ体の遺骨といわれたが、京都大片山一道名誉教授らの精密調査の結果、30歳前後と20歳前後。
1人は身長165cm位で血液B型の貴公子形の男子と判定された。
この結果、2人の被葬者は、蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と宅部皇子の可能性が高いと考えられいる。作家の黒岩重吾らもこの説に近い。
また副葬品や埋葬の様子から、元々穴穂部皇子の陵墓であった所に同母弟崇峻天皇が合葬されたとの説もある。
馬具などの埋葬からみても、私が当初聞いていた埼玉大学の原島 礼二教授の「茨原城皇子と磐隈皇女」の説は影がうすくなった。
注:(丁未の乱)
物部守屋と蘇我馬子は義兄弟で、若いころは友好関係であった。
しかし用明天皇が崩御したあとの後継者選びで、大きく対立した。
物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、6月7日、馬子は炊屋姫(のちの推古天皇)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。翌日、宅部皇子を誅した。
(用明天皇の後継者争いが、守屋と馬子の対立の最大の原因と考えられる。穴穂部皇子の乳母は、物部系の人物であったという。)
7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館へ向かった。
守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。
皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。
しかし、迹見赤檮が大木に登っている守屋を射殺した。寄せ手は攻めかかり、引き続き守屋の子らを殺害し、守屋の軍は敗北して逃げ散った。
生き残った守屋の子のうち片野田と辰狐兄弟は、前者は筑前国鞍手に、後者には肥前国松浦に流罪されたという。
この戦いは丁未の乱と呼ばれる。
八尾市南太子堂には迹見赤檮が物部守屋を射たときの矢を埋めたとされる鏑矢塚、その南西には弓を埋めたとされる弓代塚がある(迹見赤檮発箭地史蹟、とみのいちいはっせんちしせき)。
物部と蘇我の争いに悩んだ聖徳太子が、斑鳩の地に二人の遺体を引き取り、埋葬したのが、藤ノ木古墳と推定されている。
わしは最近思うのだが、古代日本人がもし関西弁を話してたらの疑問
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