2020年10月31日土曜日

ロッキード事件とダグラス・グラマン事件

 1976年(昭和51年):ロッキード事件

一国の首相が収賄で逮捕されたということで有名な話。

全日空にトライスターの売り込みのための賄賂を、田中首相がうけとっていたとされた。

トライスター

逮捕された者は 18人,起訴された者は 16人に及んだ。起訴された 16人のうち田中元首相を含め 5人が公判中に死亡して公訴棄却となり,1995年2月に最高裁で田中の元秘書官と丸紅元会長の上告が棄却されたのを最後に、残る 11人全員が有罪となった。

事件の背景には、ベトナム戦争がからんでいる。敗退するアメリカ軍。傭兵部隊(韓国軍を含む)を投入し、兵站基地の日本がありながら、アメリカは負け続ける。

日本の戦後の歴史は、東京を中心とした一極集中型の歴史観を日本全国に配信した。いつしか、マスコミも東京を中心とする情報を画一的に垂れ流すだけで満足している。
 しかし、ここに落とし穴がある。

 首都圏への物流はトラックが主流になっている。しかし、トラック・ドライバーは慢性的に不足する。そのことは、50年以上も前から言われていた。

高速道路網はGHQの高官が、アメリカの自動車メーカーのキックバック目当てに建設したともいわれる。目算は外れて、アメリカ車は売れなかった。
 
ならば、ボーイング、ダグラスの民間航空機を売り込もうか?
 成田空港を建設したのも、見えざるGHQの亡霊の仕業なのか?


そんな中、軍産複合体は生き残りをかけて、軍用機メーカーから民間旅客機メーカーへの転身を図っていた。先発したのは、ボーイングだった。

 しかし、ボーイング727は折々、事故を起こして墜落した。さらには、岩手県雫石町の上空では、空自の練習機と空中衝突。音速に近い速度のボーイングと朝鮮戦争時の戦闘機とでは、まるで速度が異なるが、結局、政治力で空自の責任となった。

後発のダグラス、グラマンも民間旅客機を日本に売り込むために奮闘。

ロッキード事件は世間の注目を浴びたが、ダグラス・グラマン事件は、扱いが極めて小さかった。

このダグラス・グラマン事件の渦中の方の葬式が、つい先日、あった。文科省が弔旗を上げろと指示した、しないで、揉めたが。

 大久保利通の孫である大久保利春が、ロッキード事件では丸紅専務として国会での証人で登場した。「あの、大久保の・・・」と世間の目は冷ややかだった。

1979年:ダグラス・グラマン事件

1968年
防衛庁第2次防衛力整備計画における、次期FX計画主力戦闘機導入発足、選考にはロッキードCL1010-2、マクドネル・ダグラスF-4SAABビゲンダッソーミラージュF1が候補に挙がる。
1969年
F-4Eを元にしたF-4EJの採用決定。
F-4EJ

昭和54年(1979年)元総理大臣2人、その後に総理大臣になった人1人を含む政界を揺るがす
 巨大汚職事件「ダグラス・グラマン事件」がおこる。

1月4日 - アメリカのSECが、グラマン社が自社の早期警戒機E-2C)の売込みのため、日本の政府高官(岸信介福田赳夫中曽根康弘松野頼三)らに代理店の日商岩井(現・双日)を経由して、不正資金を渡したことを告発。
相次ぐ証言を受け、東京地検特捜部は、米SECに資料提供を要請し捜査を開始。
2月1日 - 日商岩井航空機部門担当の島田常務が、赤坂の同社本社ビルから遺書を残して投身自殺。遺書には「日商岩井の皆さん。男は堂々とあるべき。会社の生命は永遠です。その永遠の為に私たちは奉仕すべきです。私達の勤務はわずか20年か30年でも会社の生命は永遠です。それを守るために男として堂々とあるべきです。今回の疑惑、会社はイメージダウン、本当に申し訳なく思います。責任とります。」と書かれていた。キーマンの自殺によって、捜査は行き詰まる。
多くの政治家や商社マンに嫌疑がかけられたが、結局商社の3人だけが起訴され、日商岩井・海部八郎副社長に懲役2年執行猶予3年の判決。被告原告共に控訴せず、同年8月7日確定。

私がダグラス社を訪問した1968年は、この事件のはじまりになるF-4EJの売り込み開始の時期だったらしく、民間人なのに、昼食に豪華なビフテキ料理がだされて驚いた。
当時はこんな背景を知るよしもなく、ジャンボJet機の開発中の機体を見学し、戦前から雁ノ巣飛行場でなじんでいただクラス機DC-3の製造元をはじめて見学できて、感激していた。
叔父が大日本航空のパイロットだったので、戦前の中学生になったとき、DC-3に乗せてもらった時の記憶は今もはっきりのこっている。
DC-3

現在ダグラス社はロッキード社に吸収され、グラマン社はノースロップ社と合併している。
ロッキーード社もコロナの影響で苦戦している航空業界である。


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