2020年10月27日火曜日

柳川城の城主:田中吉政と水路工事

 柳川地方の支配者は、蒲池氏,龍造寺氏,立花宗茂,田中氏,立花氏と変化した。

 柳川藩藩主、立花宗茂(1567~1642)と妻の誾千代を主人公とするNHK大河ドラマの招致キャンペーンを展開する柳川市。

だが柳川には関ケ原の戦い後の8年間、宗茂に劣らぬ名君がいたことはあまり知られていない。

「筑後国主」として筑後地方一帯を治めた田中吉政(1548~1609)だ。

NHKファミリーヒストリーで、芸能人の田中裕二のルーツとして紹介されたが、その出身地の小郡あたりは、田中吉政の子孫が開拓していたらしい。

 吉政は近江国(滋賀県)生まれ。田中家は地侍だったと伝えられるが、豊臣秀吉、秀次に仕えて頭角を現し、三河国(愛知県)の岡崎10万石の城主となる。

関ケ原の戦いでは西軍の石田三成を捕らえるなどの功績を挙げ、32万5千石を得て1601年に、立花宗茂失脚のあとの柳川城へ入った。

 吉政は秀吉や家康といった時の権力者の近くで活躍し、筑後入封は島津や鍋島、黒田といった大名を抑える意味もあり、家康の信頼の厚さがうかがえる。

 さらに為政者としての能力も高かった。近江や三河、および亡くなるまでの短い間に筑後一円で手掛けた都市計画や事業を見て、全国の歴史家はもっぱら、「土木の神様」だと称している。

 代表的なものが、現在の大川市からみやま市にまたがる潮止め堤防「慶長本土居」。総延長32キロのうち、25キロの第1期工事は入封翌年の02年8月、わずか3日間で完成させた。

本土居は道路などに変わり原形をとどめないが、柳川市大和町には記念碑がある。用意周到に干潮と小潮を見極め、農民を総動員して一気に造った。築堤は有明海干拓による新田開発にも貢献した。

 柳川城と支城の久留米城をほぼ直線で結ぶ「久留米柳川往還」も同年の事業。

県道23号はこの道路が礎で、今も「田中道」と呼ばれることがある。

大木町の住吉宮など、沿線には吉政を祭る多くの社がある。短い治世だったが、いかに筑後の発展に貢献した人物であったか分る。

 城下町柳川の原形となる町割りや掘割の整備、5層の天守閣の建造なども吉政の手による。掘割の水路は、住民の生活水にもなっており、現在では川下りの観光資源にかわっている。

柳川の川下りコース中間点には彼の銅像が建つ。右手に扇、左手には望遠鏡。何やら工事の現場監督のようなたたずまいだ。


慶長14年(1609年)に京都伏見で没した。参勤交代の途中であった。享年62。

田中家は跡を継いだ忠政が男子を残さぬまま死去したために、元和6年(1620年)に改易された。

あとに立花宗茂が復活して入城し、田中の跡の土木工事を継承した。

戦後、上下水道を普及させていくときに、掘割を下水道として埋める計画もでたが、住民の反対で保存され、現在も住民の努力で清掃や管理がされている。

掘割の水はダムの役目ももっており、昨年の大水害のときも、近隣の大川市などは、大被害をうけたのに、はやがめに水路の水を放水したおかげで、町での浸水被害は2軒だけですんだ。

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