2020年10月9日金曜日

北里柴三郎の人生とその孫医師

 プロファイラーの番組で、北里柴三郎の一生が紹介された。

私の自宅近くに、その孫の方が開業されていて、私も肺炎や胆嚢病で入院治療をうけたことがある。その縁で、熊本小國町の北里柴三郎生家と記念館にも訪れたことがあるので、テレビも興味深くみた。 その概要をまとめてみた。




青年期では軍人になることを夢みていたが、父の意向で地元の医学校に入学した。兄妹が幼くして病死したこともひとつの要因であった。学校で顕微鏡などに接し細菌の研究に興味をもって、東大医学部の前進に入学し、勉学にはげんだ。

肥後もっこすの性格で、リーダーシップを発揮し、大学組織に反抗運動などもおこした。

卒業後は、高給の医者の道を選ばず、内務省の伝染病研究所に就職、ドイツに留学した。

コレラなどの伝染病の研究出有名なコッホ研究所に入ったが、当初はドイツ語のうまい日本

人が来たくらいにしか評価されなかった。しかし熱心な研究活動で次第にコッホの信頼をえ

て、重要な研究テーマをまかされれるようになった。




そして当時流行していたペスト菌の発見と純粋培養に成功し、大きな研究成果をあげた。




そのまま研究を続ければ、その成果は第1回ノーベル賞候補に選ばれるほどのものだったが、彼は内務省の帰国命令にしたがい帰国して、学んだ成果を同胞のの苦しみを救うことに役立てたいと考えた。

その趣旨に賛同した福沢諭吉らが、自分の土地と私財を投入して、私立伝染病研究所の設立を応援した。
北里柴三郎を慕う多くの研究者が、この研究所にあつまり、いろんな成果をあげていった。
この結果日本では、ペストの侵入や流行をくいとめることに成功した。

雷おやじと呼ばれるほど、かれの指導はきびしかったが、人間的魅力に所員はひかれて団結していた。

  • 1914年 - 私立伝染病研究所が内務省管轄から文部省管轄に移管され東京大学に合併されることになった時、初代所長北里(61歳)は移管に反対して所長を辞任。この時、志賀潔をはじめとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出した。伝研騒動といわれる。




  • 北里は、11月5日に私費を投じて北里研究所を設立した。その背景には東大医学部と北里の確執があったようだ。
  • 1918年 - 北里研究所が社団法人として認可される。
  • 1931年に柴三郎(78歳)は脳溢血でたおれ、その生涯の幕を閉じたが、北里研究所はその後多くの困難を克服しながら、現在の北里学園や北里大学へと発展している。

 

北里研究所の研究者の中から、その後2015年にノーベル賞受賞者大村智氏もあらわれている。


その孫の北里病院長は、風貌が祖父によく似ておられたが、性格は雷ではなく温厚なかたであった。60代後半に肝臓がんのため早世されたのは、残念である。






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