プロファイラーの番組で、北里柴三郎の一生が紹介された。
私の自宅近くに、その孫の方が開業されていて、私も肺炎や胆嚢病で入院治療をうけたことがある。その縁で、熊本小國町の北里柴三郎生家と記念館にも訪れたことがあるので、テレビも興味深くみた。 その概要をまとめてみた。
青年期では軍人になることを夢みていたが、父の意向で地元の医学校に入学した。兄妹が幼くして病死したこともひとつの要因であった。学校で顕微鏡などに接し細菌の研究に興味をもって、東大医学部の前進に入学し、勉学にはげんだ。
肥後もっこすの性格で、リーダーシップを発揮し、大学組織に反抗運動などもおこした。
卒業後は、高給の医者の道を選ばず、内務省の伝染病研究所に就職、ドイツに留学した。
コレラなどの伝染病の研究出有名なコッホ研究所に入ったが、当初はドイツ語のうまい日本
人が来たくらいにしか評価されなかった。しかし熱心な研究活動で次第にコッホの信頼をえ
て、重要な研究テーマをまかされれるようになった。
そして当時流行していたペスト菌の発見と純粋培養に成功し、大きな研究成果をあげた。
そのまま研究を続ければ、その成果は第1回ノーベル賞候補に選ばれるほどのものだったが、彼は内務省の帰国命令にしたがい帰国して、学んだ成果を同胞のの苦しみを救うことに役立てたいと考えた。
その趣旨に賛同した福沢諭吉らが、自分の土地と私財を投入して、私立伝染病研究所の設立を応援した。- 1892年 - 福澤諭吉・森村市左衛門等の援助を受け、北里柴三郎が私立伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)を設立する。初代所長として、細菌学の研究と指導に当たる。
北里柴三郎を慕う多くの研究者が、この研究所にあつまり、いろんな成果をあげていった。
この結果日本では、ペストの侵入や流行をくいとめることに成功した。
雷おやじと呼ばれるほど、かれの指導はきびしかったが、人間的魅力に所員はひかれて団結していた。
- 1939年 - 創立25周年記念式典。
- 1941年 - 学術研究機関として文部省および厚生省所管許可。
- 1952年 - 北里柴三郎生誕100年祭。
- 1957年 - 北里衛生科学専門学院を開設(1996年閉学→北里大学へ継続)。
- 1961年 - 製剤施設を整備。千葉県柏市に家畜衛生研究所を開設。
- 1962年 - 創立50周年記念事業として、学校法人北里学園を創立し、北里大学を設置。
- 1972年 - 付属の東洋医学総合研究所を開設。
- 1980年 - 北里研究所本館(木造二階建)を博物館明治村(愛知県犬山市)に移築復原。
- 1983年 - 肝臓病研究センターを開設。
- 1986年 - 東洋医学総合研究所、日本初のWHO伝統医学協力センター指定。
- 1987年 - バイオイアトリックセンターを開設。北里柴三郎生家修復ならびに北里柴三郎記念館開館式(熊本県小国町)。肝臓病研究センター、WHOウイルス性肝炎研究協力センター指定。
- 1989年 - 創立75周年記念事業として北里研究所メディカルセンター (KMC) 事業を埼玉県北本市の旧農林水産省農事試験場畑作部跡地を購入して推進し、KMC病院(現:北里大学メディカルセンター)開設。
- 1991年 - 生物機能研究所を開設。
- 1998年 - 熱帯病研究センター開設。
- 1999年 - 王森然記念館を開館。バイオイアトリックセンターを臨床薬理研究所と改名。北里研究所病院新棟開院。
- 2001年 - 基礎研究所の一部および生物機能研究所、北里大学北里生命科学研究所として、北里大学へ移籍。白金構内にアネックス棟が完成し、東洋医学総合研究所ならびに臨床薬理研究所が移転。
- 2002年 - 家畜衛生研究所を改組し、生物製剤研究所と統合。
- 2008年 - 社団法人北里研究所と学校法人北里学園が統合し、学校法人北里研究所となる。
- 2011年 - 生物製剤研究所が行うワクチンの製造・研究開発機能を担う北里第一三共ワクチン株式会社を第一三共との合弁により設立。
- 2012年 - 北里大学創立50周年。
- 2014年 - 北里研究所創立100周年。
北里研究所の研究者の中から、その後2015年にノーベル賞受賞者大村智氏もあらわれている。
その孫の北里病院長は、風貌が祖父によく似ておられたが、性格は雷ではなく温厚なかたであった。60代後半に肝臓がんのため早世されたのは、残念である。
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