2022年11月14日月曜日

邪馬台国と不弥国の地理的位置

 【不彌国の地理的位置】


熊本大学 名誉教授・客員教授


『魏志倭人傳』には對馬國から一支國までは南へ「渡海千余里」だったと書かれています。一支國から末盧國までも渡海千余里でした(魏志倭人傳)。
 末盧國として上陸させた港は、1.当時玄界灘の航行は危険であり、一支國から最も近く、最短距離である。2.伊都國から見えていて、伊都國王(一大率)が歩いて行って入国審査・手荷物検査を行いやすい(馬はいなかった)。
という条件から、松浦市ではなく東松浦半島北端(唐津市の北)だったと考えられます。そこ(唐津市の北)には古代から衛所がありました。
 末盧國は女王國に属していません。魏からの使者を女王國の伊都國に上陸させないでわざわざ末盧國に上陸させたのは、女王國の防衛上の理由からです。末盧國は朝鮮半島からの脅威に対して緩衝地帯をなしていました。
 末盧國の上陸地点から「南東」を見ると伊都國の領域が見えています。これまで、伊都國というと古代ギリシャの都市国家のように「点」(都市)と考えられましたが、伊都國は女王國・倭國のなかでも伝統的に強大な力をもつ国であり、広大な「領域」をもっていました。魏使は東南をめざして歩きました。
 對馬國から一支國までを「千余里」、一支國から上陸した末盧國までを「千余里」とすると(魏志倭人傳。衛星写真で見るとずいぶんと大ざっぱには感じられますが)上陸した末盧國から伊都國までは「五百里」といえます。伊都國から奴國までは「百里」、奴國から不彌国までも「百里」でした(魏志倭人傳)。
 不彌国は臨海国であるので、対馬國、一支國、奴國などと同様に副官として「ひなもり」(海防担当官)がいて(魏志倭人傳)、朝鮮半島からの脅威に備えていました。
 不彌国より北の宗像國は紀元前後から国全体が社領であり、不彌国の支配は及びませんでした。
 当時日本の人口は少なく 594,900人でした。そのうち、九州の人口は 105,100人、近畿は108,300人でした(小山修三教授)。
北部九州も、葦原中國(畿内)も、すべての国々(環濠集落郡)を併せても、それぞれ数千戸しかありませんでした。
 なお、当時、福岡平野は海底にあり、奴國も「二万戸」ではなく「千戸以下」の狭い稲作国でした。博多湾は内陸地まで水郷化していました。
佐賀平野も海底にあり、吉野ヶ里も波打ち際にあって、有明海も内陸地まで水郷化していました。牛馬のいない卑彌呼の時代に、筑紫北岸の国々と筑紫南部の国々を現在の御笠川と宝満川が動脈としてつないでいました。
宝満川には近年まで川湊があって帆掛け船で物資を輸送していました。この二つの川を利用することを「渡海」とは言わないで「水行」と言いました。
当時の人びとは途中で何日も逗留しながら移動しました。

【魏志倭人傳の倭國の人口は本当は 10分の1もなく、洛陽からの距離は半分もなかった】
 西暦 237年(魏の景初元年)に帶方郡の公孫淵は魏の第二代皇帝・曹叡から朝貢を求められました。公孫淵はそれに反旗を翻し、自ら燕國王と称しました。翌年には年号を「紹漢」と定めました。西暦 238年(景初二年)に魏が燕國を討伐する動きとなりました。この情報は直ちに卑彌呼に伝わりました。
 倭國は魏の敵国となった公孫氏・帶方郡の友好国(交易国)でした。卑彌呼は公孫氏から鉄器や青銅器を輸入していました。卑彌呼はそのため公孫氏に朝貢していました。卑彌呼としては、倭國が魏の敵国として魏に攻め込まれるとひとたまりもありません。卑彌呼は直ちに帶方郡に特使を送りました。卑彌呼は刻一刻の危機の中で正使の難升米にすべてを託しました。それは、帶方郡で、端的には公孫氏を裏切って、魏の皇帝に朝貢せよというものでした。それは卑彌呼にとって人生一か八かの大勝負でした。この大勝負を魏の将軍・司馬懿(しばゐ 179-251)が評価しました。
 魏では公孫氏を討った司馬懿が力をつけていました。西暦 229年にインドのクシャーナ朝に「親魏」の称号を授与したのは魏の高官・曹真の提言によるものでした。曹真は皇帝の血統を引く者ではなく、司馬懿の政敵でした。倭國に「親魏」の称号を授与したのは、司馬懿の提言によるものでした。宮廷内の勢力抗争でした。
 皇帝は朝貢する国が大国であれば大国であるほど、また、遠ければ遠いほど、その徳は高いと考えられていました。
『魏志倭人傳』の魏使にとって、倭國の朝貢はとりもなおさず公孫氏を討った司馬懿の功績でした。魏使の報告書は、この司馬懿の功績を讃えるために「倭國は大国である。遠国である」と水増しして書かれます。
 それは数量(里数・戸数・水行日数・侍女の数・墳墓の径など)について「露布の習わし」を用いて書かれました。「露布の習わし」とは北へ百里行って敵を百人殺した場合に北へ千里行って敵を千人殺したと報告しても褒められこそすれ咎められることはないといった習わしのことです。
 しかし、「方角」について「露布の習わし」が用いられた例はありません。「南」は正確に南、「東」は正確に東、「東南」は正確に東南でした。たとえば、東松浦半島北端に上陸した魏使はそこから「東南」の方角に広がって見える伊都國を目指して歩きました。
 西暦 250年頃の日本の人口は 594,900人。そのうち、九州は 105,100人、近畿は108,300人でした。そのころ東北ではまだ稲作が行われず、人口も 33,400人でした。(国立民博・小山修三教授『縄文時代(コンピューター考古学による復元)』中公新書1984など)
『魏志倭人傳』の奴國「2万戸」、投馬國「5万戸」、邪馬臺國「7万戸」などは、インドのクシャーナ朝(10万戸)に匹敵するように数字を合わせたというだけです。本当の人口は、前記のようにその 10分の1もありませんでした。
 魏の都・洛陽からインドのクシャーナ朝までの距離は「16,370里」として知られていました(『後漢書』西域傳・大月氏國)。帶方郡までの距離は 5,000里でした。『魏志倭人傳』は洛陽から末路国までの距離を「15,000余里」、洛陽から邪馬臺國までの距離を「17,000余里」と報告しました。これも、インドのクシャーナ朝(16,370里)に匹敵するように数字を合わせたというだけです。衛星写真で見ると、本当は洛陽からクシャーナ朝までの距離の半分もありませんでした。
『魏志倭人傳』の著者・陳壽も、司馬懿に配慮する必要がありました。司馬懿は蜀の諸葛孔明(181-234)と何度も交戦したことがある歴戦の将軍で、征服した相手国の官僚を探索してひとり残らず殺害しました。そのような将軍でした。陳寿は、魏に首をはねられなかった蜀の元官僚であり、魏に禅譲された西晋に官僚として採用されました。生きた心地はしなかったでしょう。『三國志』の中に司馬懿の功績を讃えるために、本来なら入れなくてよい『魏志倭人傳』を入れました。西晋の皇室は司馬懿の司馬氏であったからです。『魏志倭人傳』は、司馬氏に対する陳壽(とその一族)のいざというときの忠孝の「身の証」として書かれました。死後にこれを筆写するよう勅命が下りて公認の史書となりました。
 以上から、『魏志倭人傳』で我われが、恣意が入り込まないように、ひたすら「愚直」に依拠すべきは「方角の正確さ」だけでしかありません。
 奴國(福岡市あたり)の「東」の直ぐ見えるところに不彌国がありました。不彌国の「南」に投馬國がありました。投馬國の「南」に邪馬臺國がありました。不彌国と投馬國と邪馬臺國は北から南に一直線上に並んでいました。

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