2023年7月8日土曜日

ウィンストン・チャーチルの一生


1874年 11月30日(0歳)

第七代マールバラ公三男の父と、米国の投資家の娘である母の元、オックスフォード近郊のブレナム宮殿で長男として誕生。祖父がアイルランド総督だったため幼少期はアイルランドで過ごす。

チャーチルの生家は世界遺産
1882年(8歳)アスコットの寄宿学校に入学。

1888年(13歳)パブリックスクールの名門、寄宿制のハロー校に入学。

1893年(18歳)3度目の受験で陸軍士官学校騎兵科に合格。後に好成績を修め卒業する。

1895年(20歳)軽騎兵第4連隊に配属される。11月、キューバに渡航。スペイン軍と行動を共にし、実戦経験を得る。

1899年(25歳)陸軍を退官後、下院の補欠選挙に立候補するも敗北する。第二次ボーア戦争の従軍記者として南アフリカへ向かうが、現地で捕虜として捕らえられる。

1900年(26歳)捕虜収容所からの脱獄劇で知名度を上げ、帰国後総選挙に出馬。当選を果たし庶民院議員となる。

1908年(33歳)当時史上2番目の若さで商務長官を務める。

1910年(35歳)2月、内務大臣に就任。ドイツとの建艦競争が激化する中、翌年10月には海軍大臣に任命される。

1915年(40歳)第一次世界大戦時には海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導した。しかし、トルコ西部の「ガリポリ上陸作戦」を決行するが失敗して失脚し、辞職する。

1917年(42歳)軍需大臣として再び入閣する。

戦車の増産に努め、英国の勝利に貢献した。

戦後は陸軍大臣と空軍大臣を兼任し、反ソ干渉戦争を主導。

1921年(46歳)植民大臣への転任を命じられ、中東とアイルランドの和平問題に着手。

1924年(49歳)かつて父が得た最高の地位である、大蔵大臣に任命される。「金本位制復帰」に取り組む。

1926年(51歳)5月、炭鉱夫組合がチャーチルを非難し、ストライキを起こす。英国の公共交通機関が完全停止し、そこから徐々に党内でも孤立するようになる。

1929年(55歳)「嫌われ者」という悪評が付けられ、以後10年閣僚職に就くことができなくなる。その間にファシズムが台頭する。

1940年(65歳)ファシズムに対し、早くから警鐘を鳴らし続け、ヒトラー独裁政権への宥和政策に反対した。

ライバルはヒットラー

第二次世界大戦を機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰したが、北欧戦で惨敗した。

しかしこの惨敗の責任はチェンバレン首相に帰せられ、1940年に後任として首相職に就き、1945年の勝利達成まで戦争を主導した。

ロンドンに留まり、英国本土の制空権を狙うドイツ空軍の攻撃を撃退した。

チャーチルのVサイン

1941年6月にヒトラーが独ソ戦を開始したことでスターリンのソビエト連邦と同盟関係になる。さらに1941年12月に日本が真珠湾を攻撃したことで米国とも同盟関係になる。

1943年11月、チャーチル、ルーズベルト、スターリンの三巨頭によるテヘラン会談に基づきノルマンディー上陸作戦が決行され、膠着状態が崩れる。

1945年(70歳)第二次世界大戦でイギリスを指揮し、勝利に導いた。1945年5月、ドイツが無条件降伏。

その後、解散総選挙を行うも保守党は惨敗し、チャーチルは政権を失う。

チャーチルはその後も反共外交を行い、ヨーロッパ合衆国構想などを推し進めた。

1946年(71歳)首相退任後、国際的な活動を続けるなか、訪米中に「鉄のカーテン」演説を行い、冷戦期の幕開けとなる。

1951年(76歳)保守党を率いて再び勝利し、第二次内閣を形成する。米ソに次ぐ原爆保有を実現し、東南アジア条約機構(SEATO)参加など反共政策も進めた。

1953年(78歳)著書『第二次世界大戦回顧録』でノーベル文学賞を受賞。

本当は平和賞がほかったな。

1955年(80歳)首相の座を後進に譲り、引退。たびたび心臓発作に襲われるようになる。

1965年(90歳)1月24日、父が70年前に他界したのと同じ日に死去。

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