2019年6月12日水曜日

高貴なる敗北・・・日本史の悲劇の英雄たち

コロンビア大学の日本研究の教授であったアイヴァン・モリスは、1975年に、題記の著書を書いた。これは、三島由紀夫に捧げられた一書であるといわれている。
日本人は、成功ではなく、没落の姿に美しさを感じ、心惹かれ、胸をあつくする。それが日本人特有の性情であり、、歴史の特長であると、彼はかんがえた。
モリスが論じた典型的な悲劇の英雄は、日本武尊、捕鳥部万、有間皇子、菅原道真、源義経、楠木正成、そして17世紀の天草四郎、大塩平八郎、現代では西郷隆盛などである。さらに最後にカミカゼ特攻の戦士たちが論じられる。
彼らは、成功よりも、誠をつらぬくことを重んじ、そのひとの努力と犠牲の死は、実益を重視する現実の世界でも、大きな価値があったはずだとモリスは強調する。
このような考えは、この著書のまえから、モリスの論文で述べられていたようだ。
三島由紀夫は、そのことを良くしっていたので、1970年の劇的な切腹の前に、モリスに手紙を書き、「・・・あなたは私の行き着くところを理解できる実に数少ないうとのひとりだと思っています。陽明学に影響された私はこう考えてきました。行動なしの知識は充分な知識ならず、また行動そのものは、その効果を問題にしない、と」。
国際基督教大学の斉藤和明教授は、日本の英雄たちが精神的理想のために生きたいきざまは、基督教徒の信仰への決断と同じで、ゆるぎない忠誠心をもっていたのではないかと問いかけている。
しかし現在のマスコミでは、楠木正成の忠臣伝説などと表現し、悲劇の英雄たちを、軽視している。
楠木正成像
皇居の近辺にある楠木正成公の銅像。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀、元弘の乱(1331年〜1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔官護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また建武の新政下で最高政務機関である記録所の寄人に任じられ足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。建武の元勲の一人。南北朝時代、戦国時代、江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才の評価を受けている。

2019年5月18日土曜日

皇居周辺の銅像

皇居周辺の銅像
皇居の東南(巽)の方向の皇居外苑の一角に楠公銅像があり、M30年に住友吉左衛門の寄付で造立された。
馬は後藤貞行・人物は高村光雲の合作である。

皇居の北東(丑寅)の方向の東京消防庁前を大手濠にそって西に100mの濠端に、和気清麻呂の銅像がある。
佐藤朝山のS15年の作である。
皇居の北西(乾)の方向の靖国神社境内に、大村益次郎の銅像があり、M21年大熊氏広の作である。
その近くに、大山巌の銅像もある。

近くの田安門の前の濠端の植込みのなかに、品川弥二郎(内務大臣)の銅像がある。

さらに皇居に近い北ノ丸公園の南部の、近代工芸美術館近くに、
北白川宮能久親王の銅像がある。

少し離れているが皇居の西南(未申)の方向の、麻布5丁目の有栖川宮公園には、有栖川宮織仁親王の銅像がある。

奈良時代から明治時代まで、天皇家を何らかの形で守ってきた人物たちである。

2019年5月8日水曜日

93歳の感想

   90代の高齢者の賀寿には、つぎのようなものがある。
 90 卒寿 「卒」の略字(卆)を九十と分解
 92 夆寿 「卆」に二を加える (私の提案)
 95 珍寿 「珍」の字を十二と八十三と分解
 97 酔寿  「卆」に(二と四)と一を加える(私の提案)
 99 白寿 「百」の字から一をとると白
   99   悴寿  「卆」に八と一を加える (私の提案)
100 百寿  そのまま、ももじゅ (別称:紀寿

私はこの5月9日に93歳を迎えるが、とくに賀寿は無いし、いろいろ考えてみたが、いい名称を思いつかない。字画数でなく、読みだけで、「組寿」はあまりめでたくもない文字だ。
人名で、九十三という姓は「つくみ」とよび、九十九の姓は「つくも」とよぶそうだが、年齢の漢字とは結びつかない。
結局、95歳まで「賀」はおあずけである。
5月は立夏の時で、春の青春、夏の赤夏の中間にあたる。青と赤をまぜれば紫色となり、藤の花の色だ。この時期に私と孫の一人が同じ日にうまれたのも、何かの縁であろう。

2019年5月4日土曜日

室生寺の六手如意輪観音像

室生寺の本堂と五重塔

本堂の六手如意輪観音像

室生寺の密教化が進んでいた鎌倉時代後期、延慶元年(1308年)本堂が建立された。梁間5間のうち、手前2間を外陣、奥の3間を内陣とする。この堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも称され、灌頂という密教儀式を行うための堂である。
内陣中央の厨子には、上の写真の六手の如意輪観音坐像(重文)を安置し、その手前左右の壁には両界曼荼羅金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅)を向かい合わせに掛け、灌頂堂としての形式を保持している。
和辻哲郎は、昭和5年の随筆「六本の手の如意輪観音」で、その優美な姿をつぎのように絶賛している。
「作者はいかにしてこのような構図に成功したか。・・・
我々にとって人間の腕が常に二本であるように、作者にとってもまた人間の腕は二本であった。二本の腕の相互的な連関を離れて人体の腕はあり得ぬのである。作者は相連関する二本の腕を作った。ただそれを三度重ねたに過ぎぬ。」
梅原猛らの「仏像:心と形」では、類似の観心寺の六手如意輪観音像を紹介している。こちらは国宝で、原色日本美術全集にも掲載されている。
観心寺の如意輪観音像

弘法大師により輸入された新しい経典によった密教の仏像で、インド彫刻のような官能的な柔らかい肉身をもったものとした作風である。
和辻哲郎はここも訪問したが、住職不在のため拝観できなかったことを残念がっている。
籔内さんの「仏像拝観手引き」では、どちらも掲載されなかったのは残念だ。


2019年4月15日月曜日

北里柴三郎と孫の勝史先生

北里勝史先生(柴三郎の孫)

5年後にでる新紙幣の顔の候補が発表された。千円の顔となる北里柴三郎は九州出身だ。

そのお孫さんが古賀の東病院勤務後にわが家の近くで開業されていたので、夫婦ともお世話になった。北里循環器内科の北里勝史先生だ。母方の養子になられ、姓は吉田で、奥様は福岡教育大の声楽の先生で有名だった。

その縁で小国町の生家の記念館を訪ねたりした。新紙幣の顔を見るまで長生きしたいものだ。
残念ながら、勝史先生は数年前癌でなくなられた。
花が好きな先生で、病院の庭は色とりどりの花がさいていた。
風貌も、祖父の柴三郎によく似ておられた。
北里柴三郎

2019年3月26日火曜日

香椎浜(香椎潟)の昔と今


現在の香椎浜の地図
昔と今の比較地図




JR香椎駅商店街のPR館で昔の香椎の写真や古地図の展示会があった。
昔といっても戦前であれば、ある程度知っているつもりだったが、さらに大昔(200年前)の風景画などがならんでいた。

香椎宮周辺の俯瞰図
上の写真は香椎宮周辺の俯瞰図で江戸時代のスケッチ図を復元したものだ。
日本書記(巻八)によると、九年の春二月に52歳の仲哀天皇が橿日宮(香椎宮)で崩御された。これは三韓を征伐せよという神の教えに従わずにいたためと思われた。
神功皇后は、小山田邑に斎宮を造り、出兵を決心されたという。わが古賀市の小山田斎宮はこの時建立されたものらしい。郷土史にはあまりくわしく記載されていない新発見である。また皇石神社にも神功皇后ゆかりの大石がある。
この年には天皇を葬りまつることを得ずとあり、香椎廟ができたのは少しあとになる。
立花山城と香椎浜
この図は戦国時代の立花城古図として有名で、周辺の里山や街道をしるした地図。
立花山は、仲哀天皇が三韓征伐の神の教えが下ったとき、「高き岳にのぼりて遥かに海原を望むるに、ひろくして国も見えず」といわれた時の高き岳であった。
二神山ともいわれ、九州物部氏の信仰した山でもある。三韓とは馬韓、弁韓、辰韓で朝鮮半島の南部である。百済、新羅、高句麗と間違えている本が結構ある。
戦国時代には、大友氏と大内氏が制覇をあらそった山城で有名だ。
図の右下に、原上や唐原の村があり、香椎イオンのある香椎浜につながっている。
香椎浜と名島の間の香椎潟
この図は香椎潟(香椎~名島間)の明治時代の図で鉄道は海の中の鉄橋を走っている。
戦後の発展で失われた自然の風景をいろいろ思いだして懐かしい記憶が甦えった。
中学時代に箱崎から西戸崎までの往復10里行軍で歩いた唐津街道、香椎潟で葦の葉を切り出した夏の作業、戦後出来た米軍キャンプでのアルバイト作業などなど。
香椎浜の御嶋崎と濱雄社
この図は、香椎浜の御嶋先と濱雄社周辺の俯瞰図で、香椎イオンの東入り口周辺であり、鳥居だけが残っている。
日本書記に出てくる香椎潟は、神功皇后が橿日浦(香椎浦)で「髪を海に入れて洗うとき、髪が流れで二つにわかれたら三韓を征伐しよう」といわれ、占いの通りになったので出兵されたという伝説の場所でもある。
松本清張の小説「点と線」で舞台となった御島岬(長崎鼻)も、いまは陸地の住宅地のなかになっている。

清張桜


大伴旅人が、「いざ児ども香椎の潟に白砂の袖さへぬれて朝菜摘みてむ」と詠んだ叙情は、いま皆無である。
御島神社

今も浜に3ケの亀石



現在も祈りの場所



点と線の映画で有名になった西鉄香椎駅も今は近代化している。
昔の西鉄香椎駅


今の西鉄香椎駅

香椎潟の埋立て経過は複雑で、正確な記録は不明だが、昭和4年頃の埋立て計画図が残っているのを見つけた。
昭和4年の埋立て予定図

前松原(舞松原)の「水流」は、八田交番付近が土井、八田の水分峠になっていて、北に流れる小川は衣川とよばれてたが、現在は城浜団地横の正体不明の『暗渠』となって海につながっている。

昭和初期の地図
鹿児島本線の「本」の文字あたりに水路が、暗きょうになった。














2019年3月21日木曜日

飛鳥の王都変遷の跡(改訂版)



飛鳥地区(左が北;右が南)


飛鳥の巨石遺跡


推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位(592年)し、持統天皇が藤原宮へ遷都(694年)するまでの約100年、明日香の地域に各天皇が宮殿を置いた。 
文献に拠って多少表現が異なるが、
推古天皇→豊浦宮(とゆらのみや)、小墾田宮(おはりだのみや) (聖徳太子の時代)
舒明天皇→飛鳥岡本宮 、田中宮
皇極天皇→後小墾田宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥河辺行宮
斉明天皇→川原宮、後飛鳥岡本宮、両槻宮
天武天皇→浄御原宮(きよみはらのみや)
といった場所に都宮を変遷した。

宮殿の所在地は、現在に至るまでそれほど明確に判っているわけではない。場所によっては重なっているところもあるようだ。
飛鳥寺や石舞台は観光地で有名だが、王宮の跡は殆ど観光地になっていない。上の観光地図の黒丸は王宮跡だが、記入されていないのが多いのは、跡の場所が明確でないからだ。

総称としては、南は橘寺、北は香久山までの飛鳥川右岸の地域を飛鳥京跡と総称している。 
飛鳥板蓋宮というのは645年の有名な大化の改新で、中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を討ち果たした場所である。

板蓋と名付けられたのは、瓦屋根が出始めた時代に、まだ板の屋根だったからである。