大正三年生まれの古賀作一さんは、安倍晋三総理から表彰された。
R8.5.10.には、SJR千早のゲスト会場で、子供、孫、ひ孫たちが集まって、100歳の祝賀会を行ってくれた。
大正三年生まれの古賀作一さんは、安倍晋三総理から表彰された。
私は大正15年 5月に生まれ、今月で満100歳をむかえる。
大正15年の政治状況を一言でまとめると、AIは次の回答をしてきた。

1927年(昭和2年)3月、第1次若槻内閣のもとで全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった。
若槻内閣は同年4月17日に総辞職を表明し、代わって立憲政友会総裁の田中が4月20日に組閣した。田中内閣には元総理や次の総理を狙う大物政治家、そして将来の総理や枢密院議長などが肩を寄せ合い、大物揃いの内閣となった。
蔵相に起用された高橋是清は全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施し、金融恐慌を沈静化した。
この時代から、吉田茂や鳩山一郎の名前が出てくるのは、驚きであった。
日本の宗教観は多神教の部に属する。
最初は神道がおこる。地球の地震多発地で、巨岩や高瀧などが発生し、これらは神の姿とあがめられた。
しかしその後も大地震が発生し、多くの被害や死者が発生したので、大陸から伝わった仏教の仏様に、救いを求めた。
そして神と仏は融合していき、無常観の心で、生きてきた。
JALが羽田沖海岸に墜落事故を起こし、多くの犠牲者がでた。
機長がノイローゼになっていたのが、原因であった。
西部電機の田嶋部長が、乗客であったが、亡くなった事故でもある。
その時の副操縦士は、江崎という人物で、機長のおかしな操縦にかなり反抗したそうだが、事故となってしまった。
彼の母は江崎姓だが、ドイツ人で留学中の江崎教授と結婚し、日本人となった人物人物で、福岡女子大のドイツ語教師をしていた。
我が家の二三子夫人もその教えをうけていたという。
織田信孝 1583年5月 自害
信孝は、父・信長の死後、織田家の後継者として名乗りを上げたが、秀吉の策略に翻弄され、最終的に自害を選びました。辞世の句には、恨みや悔しさを抱えつつも、自らの生き方に誇りを持ち続ける強い意志が感じられます 。この句は、戦国時代の荒波の中で、忠義と誇りを貫いた信孝の生き様を象徴しています。
秀吉の息子 秀頼 : 1615年 5月 自害
5月に揃えたのは、家康だという磯田さん。
私たち夫婦は介護保険の認定で、要支援1である。
SJR千早に入居して数ケ月たった頃、私より17歳若いS君が、数年前ここに入居していることを知った。驚いたには、彼はアルツハイマー病やパーキンソウ病をわずらい、要介護3の状態であった。だから毎日の生活も、介護師がついての行動であった。エーザイの研究員、杉本八郎。彼が挑んでいたのは、当時「不治の病」とされ、有効な治療法がなかったアルツハイマー型認知症の薬でした。しかし、開発は困難を極めました。来る日も来る日も実験を繰り返し、4000種類もの化合物を試しましたが、結果はすべて失敗。成果が出ないプロジェクトに対し、会社の上層部は非情な決断を下します。