小牧・長久手の戦いでは家康優勢であったが、その後秀吉が逐次勢力を拡大して、巧みな交渉で遂に家康も秀吉に臣従した。
その後北条を屈服させた秀吉は、家康に、三河、遠江、駿河を明け渡して、関東平野への移転を命じた。
この時、家康には拠点選びとして、下の3つの場所の選択があった。
小田原には、北条崇拝の気風が残っており、鎌倉は拡張の余地がないなどの難点があり、秀吉の家康を遠ざけたいという意向もくみとって、江戸を居城と選択した。
しかし当時の江戸は未開の荒野と沼地であり、土地開発には大きな苦労をともなった。しかし江戸は秀吉の大阪城と類似した地形でもあった。
幸いにも朝鮮出兵の負担をうけなかったので、その間に埋立て工事や築城工事を進行させることができた。
最大の工事は利根川の治水工事で、これを太平洋側に流す工事は徳川三代の期間を要した。
領地内には家康腹心の家臣を配置し、ブレーンの知識を活用して、大江戸城の基礎ができあがった。
その後秀吉の死をへて、江戸城を拠点にして、関ヶ原、大阪の陣を戦い、ついに天下統一をして、大江戸城は250年の繁栄を継続した。
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