2016年7月6日水曜日

安陽と殷墟博物苑


安陽は2006年世界遺産登録された黄河文明発祥の古代中国殷王朝の遺跡で、河南省の最北部に、山西、河北、山東、河南四省の交わすところに位置する。
西は太行山、東は華北平原である。地積は平地で緯度は東京、サンフランシスコとほぼ同じである。市内面積は69平方キロメートル、人口が74万人である。




紀元前2000年代に、殷王朝の首都になり、今まで4000年の歴史を持っている。

安陽は中国七大古都(北京、南京、洛陽、杭州、西安、開封、安陽)のなかで最も古い、中国歴史文化名城である。古代の文字、甲骨文字が大量に出土していて、漢字文化の発生の地とされている。

1928年から考古学者を中心に遺跡の発掘調査が行われ、1986年までに15万件の甲骨が確認されている。
現在も調査が続いていますが、出土したものは甲骨だけでなく、殷代の青銅器や多くの遺跡、墳墓も発見された。
殷墟博物苑は、全て殷代の建築様式で博物苑前には美しい庭園が整備されている。

博物苑の扉は、遠くから見ると、甲骨文の“門”の字のように見え、木柱と梁には殷代の模様が装飾されていて、非常に個性的だ。


この甲骨文の扉をくぐると目に入る原始的な家屋のひさしの柱の上は、異なった形状の図案で装飾されている。

苑内の展示ホールは、二つの部分に分かれ、一つは甲骨文の展示がメインで、もう一つは殷代の暦年の重大事件が展示されている。

南西角には、中国史上、勇猛果敢な女傑として有名な婦好の陵墓がある。
殷王朝の馬車は2頭の馬で走るものであった。当時はまだ鉄製品はなく、車輪も木製であったから、速度もあまり出せなかったようだ。
2頭の馬で引いた馬車

殷周革命:「牧野の戦い(ぼくやのたたかい)」は、紀元前11世紀に、帝辛(紂王)と姫発を中心とした勢力が牧野で争った戦いで、周軍が勝利して約600年続いた殷王朝は倒れ(克殷)、周王朝が天下を治めることになった。
この時周軍の馬車は4頭の馬で走っていたという。

参考:
漢字誕生古代漢字の基礎知識  著者:水上静雄  出版元:雄山閣

0 件のコメント:

コメントを投稿