九州の諸大名の多くは、長崎街道の開通以前は、唐津街道の箱崎宿を通って通行していた。しかしその宿場町の面影を示すような町並みは何も残っていないのは残念だ。
元禄の頃までは唐津街道は、箱崎宿場の中を通っていなかったようだ。
『筑前国続風土記付録』には、「古しへの往還筋は、東は原田の南西一町斗より南にして轉して、八幡宮の裏を通りて馬出村の東の口に至れり。古道跡今も有。其行程凡八町斗、其間に川二流有て橋を渡せり。寛文三年に宿の東佛華寺の古址を開きて新道を箱崎より直に原田の方へ付け替えたり。寺址の地今は民家となりて新町という」
青柳の方から博多に向かって街道を進むと箱崎村の枝郷原田という集落がある。そこから箱崎八幡宮の裏を通って馬出村の東口に向っていたということである。
さらに、『黒田家譜三』によると、「箱崎宿の古道は、御宮の前までゆかずして、御宮の西より右に轉し、弥勒寺(座主坊)の前を経て御宮の後を通路とす。馬継所は、御宮よりはるか東に有て、其の先は道ふさがれり。是に依て往来の路より東の方に入り込て馬を継ぎ、又もとの道を返りて通路に出る故に、旅人の往来に悩み、邑人も労多くして便ならずとて、路を改めたき旨彼所より願し故、去夏其所を絵図に写して江戸に伺われ、今春に至りて古路をととめ、馬継の東に新たに道を開かれしかば、往来の人直に社前を通りて東に行、馬継の前に至り、其東の新路に出る故に、其の往来の便ゆく成ける」
今度は、博多から青柳方面に進む様子が記され、街道を進み筥崎宮の手前で右に折れ、筥崎座主坊(弥勒寺)の前を通り、川を二つ渡って原田を通ると『続風土記付録』の逆から通行する様子が記される。
注):『筑前國続風土記拾遺』巻之39 表糟屋郡 上 箱崎村 八幡宮の項に 筥崎宮に縁のある寺院は、座主坊であった五智輪院弥勒寺をはじめ、蓮乗坊・学頭坊・勧進坊・智禪坊・圓臺坊・一乗坊・一御灯坊・ニ御灯坊・慈眼院そして恵光院があったという。 恵光院以外の寺院は現在は全て廃絶もしくは筥崎宮に併合されている。
さらに、『黒田家譜』には、人馬継は箱崎村で行っていたため、筥崎宮から右に曲がる街道を直進して箱崎村に入り、そこで人馬継を行って来た道を戻り、街道に出て進むという状況であったという。
箱崎八幡宮の裏入り口に敵国降伏の鳥居がある(安川敬一郎寄贈) |
今度は、博多から青柳方面に進む様子が記され、街道を進み筥崎宮の手前で右に折れ、筥崎座主坊(弥勒寺)の前を通り、川を二つ渡って原田を通ると『続風土記付録』の逆から通行する様子が記される。
注):『筑前國続風土記拾遺』巻之39 表糟屋郡 上 箱崎村 八幡宮の項に 筥崎宮に縁のある寺院は、座主坊であった五智輪院弥勒寺をはじめ、蓮乗坊・学頭坊・勧進坊・智禪坊・圓臺坊・一乗坊・一御灯坊・ニ御灯坊・慈眼院そして恵光院があったという。 恵光院以外の寺院は現在は全て廃絶もしくは筥崎宮に併合されている。
さらに、『黒田家譜』には、人馬継は箱崎村で行っていたため、筥崎宮から右に曲がる街道を直進して箱崎村に入り、そこで人馬継を行って来た道を戻り、街道に出て進むという状況であったという。
そこで、元禄五年(1692)に箱崎宿より直接枝郷原田にショートカットできる道を造ることを許可され、ようやく街道が宿場内を通るようになり、宿場として整備されていったのでないかと考えられる。
同じように、唐津街道の上の前原や畦町も、街道は村の中を通ってはいないため、強制的に民家を移動して町立されている。
このように、唐津街道のいくつかの宿場町では、元禄期に不便さを理由に民家を強制移転して町立したり、街道を付け替えるようなことが行われたのではないかと考えられる。
同じように、唐津街道の上の前原や畦町も、街道は村の中を通ってはいないため、強制的に民家を移動して町立されている。
このように、唐津街道のいくつかの宿場町では、元禄期に不便さを理由に民家を強制移転して町立したり、街道を付け替えるようなことが行われたのではないかと考えられる。
http://karatsukaido.jugem.jp/ より:
なぜか、箱崎宿の福岡藩主の接待所である「お茶屋」の見取り図が、地元には何も残っていないにもかかわらず、薩摩藩(鹿児島県)にあったそうで、まったく驚愕されたそうだ。
杉山三郎平、杉山茂丸、杉山直樹(夢野久作)が貧困時代に一時期居を構えた街。
杉山茂丸が博多湾築港を進めた際に事務所を置いた箱崎水族館。
今の博多夢タウンの辺りは、一時期杉山町と呼ばれた。
杉山三郎平、杉山茂丸、杉山直樹(夢野久作)が貧困時代に一時期居を構えた街。
杉山茂丸が博多湾築港を進めた際に事務所を置いた箱崎水族館。
今の博多夢タウンの辺りは、一時期杉山町と呼ばれた。
古くは立花城の家臣である箱崎党の人々が住んだ街。
「博多んもんは横道もん 青竹割ってヘコにかく」は箱崎党から見た博多もんを呼んだもの。
「博多んもんは横道もん 青竹割ってヘコにかく」は箱崎党から見た博多もんを呼んだもの。
箱崎には、安武姓が多いが、そのルーツは安武方清らしい。
安武 方清(やすたけ かたきよ/ほうせい)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。大友氏、立花氏の家臣。筥崎座主、法印、大僧正。
父は安武鎮政とされ、父母が離縁した後、母が立花道雪の継室として再嫁したため、その養子となる。後に大友義鎮(宗麟)の従兄弟で筥崎座主・麟清の養子となる。
天正14年(1586年)から始まる島津氏の筑前国侵攻時には、道雪の命令により、自身の組織する箱崎党400余名の兵を率いて立花山城に籠城した。天正15年(1587年)8月には大僧正となる。
小早川隆景が筑前の国主となると、天正19年(1591年)箱崎と多々良に新たな橋を建てた際に、その現場指揮に当たった。
のち立花宗茂に従って筑後柳川に行く、朝鮮派兵で碧蹄館の戦いに無嗣のまま戦死した立花・戸次一門の立花鎮林(戸次鎮林)の跡を継ぐ。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、立花宗茂が改易されると、その翌年に出家して茂庵と称し、家督を嫡男・豪清に譲った。元和6年(1620年)、立花宗茂が陸奥国棚倉から柳川藩主となった際に、茂庵は200石を賜る。茂庵の養子である東蔵人豪清も300石を賜る。
また箱崎の筑紫家は、大友宗麟従兄弟・箱崎党五智輪院・麟清末孫のお家で、現存している。
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