伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部にある標高184mほどの丘に建てられた平山城である。北には服部川と柘植川、南には久米川、西側には木津川の本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にある。
織田信雄(北畠信雄)の家臣である滝川雄利は平楽寺の跡に砦を築いたが、小牧・長久手の戦いの際に脇坂安治によって落城させられた。その後天正13年(1585年) に筒井定次によって改修された。
天正10年(1582)6月2日、織田信長が本能寺で明智光秀に襲われ自殺した有名な「本能寺の変」では、徳川家康は「伊賀越え」して、地侍や土民の攻撃をかわしながら、岡崎城に帰還している。
その時のルートは諸説あり、上野城の近くを通過しているが、城下町は避けたはず。
このときガイドした服部半蔵は、御斉峠から徳永寺への連絡を中継地を使った狼煙により通報したといわれている。
その後関ヶ原では大谷吉継と死闘を演じた藤堂高虎は、以後徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封と交換で、伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、津藩主となる。(今治周辺の越智郡2万石を飛び地として領有)
その後関ヶ原では大谷吉継と死闘を演じた藤堂高虎は、以後徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封と交換で、伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、津藩主となる。(今治周辺の越智郡2万石を飛び地として領有)
藤堂高虎 |
藤堂高虎 |
筒井時代は攻守の敵を東側としていたが、藤堂時代は西側の大阪城を敵として、天守の移動などを行った。
秀頼の大阪城攻撃の一環と考えていたからだ。
また、万一敗戦の場合を考えた脱出用の忍びの井戸も用意されていた。
忍びの井戸 |
忍びの井戸の中 |
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