2016年7月1日金曜日

伊賀上野城

伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部にある標高184mほどの丘に建てられた平山城である。北には服部川柘植川、南には久米川、西側には木津川本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にある。

かつて上野城の場所には要塞としても利用された平楽寺や仁木氏館があった。

織田信雄(北畠信雄)の家臣である滝川雄利は平楽寺の跡に砦を築いたが、小牧・長久手の戦いの際に脇坂安治によって落城させられた。その後天正13年(1585年) に筒井定次によって改修された。

天正10年(1582)6月2日、織田信長が本能寺で明智光秀に襲われ自殺した有名な「本能寺の変」では、徳川家康は「伊賀越え」して、地侍や土民の攻撃をかわしながら、岡崎城に帰還している。
その時のルートは諸説あり、上野城の近くを通過しているが、城下町は避けたはず。


このときガイドした服部半蔵は、御斉峠から徳永寺への連絡を中継地を使った狼煙により通報したといわれている。
その後関ヶ原では大谷吉継と死闘を演じた藤堂高虎は、以後徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次改易伊勢津藩主・富田信高伊予宇和島藩への転封と交換で、伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、津藩主となる。(今治周辺の越智郡2万石を飛び地として領有)
慶長16年(1611年)に徳川家康の命を負って伊賀上野城を藤堂高虎が大きく改修した。
藤堂高虎
藤堂高虎














筒井時代は攻守の敵を東側としていたが、藤堂時代は西側の大阪城を敵として、天守の移動などを行った。
秀頼の大阪城攻撃の一環と考えていたからだ。
また、万一敗戦の場合を考えた脱出用の忍びの井戸も用意されていた。
忍びの井戸
忍びの井戸の中









天守台は東西十三、南北十一間、高さ五間で、天守閣の建設は五人の大工棟梁の分担工事とし、互いを競わすなどされていた。
しかし完成をひかえた慶長17年(1612年)9月2日、大嵐のため三層目が西南に吹き倒れ、その上に五層目が落ち天守は倒壊した。大工や人夫合せて約180名が倒死、また多数の怪我人をだした。だから大阪の陣には、殆ど貢献しなかった。
その後大坂の陣によって、豊臣氏が滅んだため築城が中止された。
国一城令で上野城は伊賀の城として存続が認められると、高虎は弟の藤堂高清を城代とし、高清の死後は藤堂元則が城代となり、文政8年(1825年)に藤堂高猷が最後の城主となるまで藤堂氏世襲とした。
本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。

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