福岡平野を中心に環博多湾地域の古代製鉄遺跡の考古学的調査は、中山平次郎、深江嘉和、大場憲郎、大沢正巳、柳沢一男らの報告がある。その代表的な鉄滓出土遺跡分布図は次の図である。
鉄滓 出土遺跡 製錬跡 鉄滓供献古墳 性格不明跡などを含めて、つぎの地区ごとにその遺跡数を示す。
糸島・今宿 57
早良 100
福岡 13
太宰府 8
粕屋 8
津屋崎 15
福岡市の西部に製鉄遺跡が圧倒的に多い。
製鉄関連遺跡の年代の明確なものは、次のとおり。
古墳鉄滓・出土鉄滓 製錬遺跡
6C (今宿大塚古墳鉄滓) (大叉住居跡鉄滓)
7C (古墳供献鉄滓) コリノ遺跡 野方遺跡
8C 「和白遺跡」 「笹栗遺跡」 下山門遺跡 野方遺
9C 下山門遺跡 門田遺跡
13C 多々良遺跡 鹿の脇遺跡
上の地図のように、多々良村にも鉄滓出土遺跡(no.77)の比較的に新しい13Cの遺跡がある。調査結果では、方形の溝で区面された鍛冶場と推定され、ほぼ中央部に火床が検出された。地方歴史書では、蔵の元・津屋・古川あたりに遺跡があったとかかれている。
多々良という地名:
地名学者によると、たち、たつ、たて、などは台地、傾斜地を示し、ラは、そこら、あちらの場所をさす。
多々良の地名が、古代製鉄所跡という説もあるが、タタラの地名が北部九州に16か所あるなかで、多々良村だけに製鉄所跡があり、また他の製鉄所跡の地名に、タタラがないので、この説は疑問視されている。
しかし、多々良遺跡が注目される歴史的釣り鐘がある。
京都の妙心寺は、花園天皇の離宮があったところで、この寺にある国宝の梵鐘は、多々良村で作られたものとされている。研究によれば「妙心寺」の鐘は「観世音寺」の鐘と兄弟(同じ「木型」(鋳型の元となるもの)から作られた)とされている。
鐘銘によれば、時代は698年(日本最古)で、場所は「粕屋」、工匠は「広国」と記されている。当時粕屋の評造だった舂米連広国が鋳造させて寄贈したらしい。
高さ約1.5m、口径約86cm、重量約830kgの古鐘には記念銘があり、そこには「戊戌年四月十三日 壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘」と書かれている。春米連は粕屋の屯倉を管理していた豪族であった。
細川幽斎の「九州道の記」にも、
船を遥かなる干潟のさきへまわして、多々良浜に徒にていきて、
「いにしへは ここに鋳物師の跡とめて 今もふみみたる たたら潟かな」とよんで
いる。幽斎も多々良の鋳物師の歴史を知っていたらしい。
この鐘は7Cに鋳造されたから、前述の13Cの多々良遺跡で作られたものではない。
名島の多々良地区には、その他の遺跡が多いが、考古学的に7Cの多々良製鉄遺跡が、明確に発掘調査されることを願うものである。
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