2020年11月26日木曜日

内田康哉:その4.大臣時代~晩年

 明治44年(1911年)、内田康哉は、第2次西園寺公望内閣で初めて外務大臣に就任。

中國で孫文らの革命がおこり、その対応に苦慮する時代であった。軍部の勢力がつよくなり、二個師団増設要求を拒否した西園寺内閣は、1年半で総辞職しました。

その後4年程、東京での生活が続き、大隈内閣から寺内内閣に変わったとき、内田はロシア大使に任命されます。ロシア革命の前夜で、社会情勢は不安に満ち溢れていました。政子の父が死亡したため、一旦帰国したが、再度出かける頃は、外務省が危険と判断して止めたようです。

内田も、日本のシベリア出兵に反対するため、病気保養の名目で帰国しましたが、寺内内閣は強行してしまいました。

大正7年(1918年)には、原敬内閣で、二度目の外務大臣となりました。

平民宰相として人気を得ていた原敬が、大正10年(1921年)11月4日に暗殺されると、11月13日まで内田康哉が臨時首相を務めています。

その直後の高橋是清内閣で三度目の外務大臣させるを務めました。

大正9年に、これまでの功績により、伯爵を授与されました。

大正11年、加藤友三郎内閣で四度目の外務大臣に就任しましたが、
加藤首相が在任中に死去すると再び臨時首相を務めています。
この頃やっと自分の手で、シベリア出兵の撤兵を完了させることが出来たと喜んでいます。

内田康哉は、原内閣から加藤内閣まで、5年間も外務大臣を務めたため、「政友会の万年外相」とよばれています。

昭和7年:斎藤内閣で五度目の外務大臣。
昭和5年(1930年)に貴族院議員に任命され、翌年には南満州鉄道の総裁となりましたが、このとき柳条湖事件(満州事変のきっかけ)が起こりました。
国内では五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、陸軍の斎藤実内閣が成立し、政党内閣が終わりを告げましたが、内田康哉は、斎藤内閣で五度目の外務大臣に就任しました。

昭和8年(1933年)に、斎藤内閣は満州国を承認しましたが、議会でこの問題が議論されると、内田は「国を焦土にしてもこの主張を徹することに於ては一歩も譲らない決心」と演説し、「内田焦土外交」と騒がれました。
また、満州問題で日本は国際連盟を脱退しましたが、ここでも中心に内田康哉がいました。

昭和11年(1936年)3月12日、日本の行く末を見届けることなく、72歳で病死しました。
内田康哉の生誕地に建てられた氷川町竜北歴史資料館があり、遺品や遺稿などが展示されています。

明治、大正、昭和前期の歴史を知ることができる人生行路です。


TIME誌に掲載された晩年の写真。





晩年の写真

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