その2
内田(土倉)政子
1871~1946、1889年同志社女学校本科卒
内田政子の父は「大和の山林王」と称えられた土倉庄三郎である。
彼は同志社に多額の寄付をしたのみならず、六男五女のうち、男子は全 員、女子四人を同志社で学ばせた。
そのうえに、二女の政子を私費でアメリカに留学させた。
同志社女学校卒業生の中で留学生第一号であった。明治23年、19歳の時であった。
留学先はプロテスタント・クエーカー系の名門女子大学、
ブリンマー大学と決まったが、その予備校として選ばれたカークス・スクール校長アビー・カークも
「驚くほどの先見の明と決断力、自制心の持ち主で、日本の誇り」
と政子を絶賛した。
留学中3年間は、再度渡米してきた津田梅子と一緒であった。政子の姉
富子が、有名な実業家原六郎の妻であり、二人が渡米してきて政子や梅子にあい、富子だけがしばらくホームステイして、二人の世話をした。
このころ渡米した実業家松本健次郎も、政子、梅子の二人の在学生と交流している。
七年に及ぶブリンマー時代に英・独・仏語をマスターしていた政子は、
帰国後、挨拶に行った外務省で通称局長の内田康哉に出会う。
彼は政子に一日で魅了され、上司の陸奥宗光を介して即結婚を申し込んだとされているが、原六郎が多くの銀行や会社の社長を務めており、陸奥宗光とも親しい間柄だったので、内田康哉のことも知っていて、義妹の結婚相手にふさわしい考えたのであろう。
婚約時代の二人は英文で恋文を交わしたと伝えられている。
政子が本場アメリカで身につけた流暢な英語力と抜きんでた社交の才により、公使夫人として最初の赴任地となった北京では、
社交界の中心となり西太后の絶大な信頼を受けた。
内田の姉:原富子は、原六郎と結婚。尊王武士だったが、維新以後は実業家。
内田の妹:鈴木治子は、鈴木裕三と結婚。海軍中将、軍医長。
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