清国公使:
明治34年、小村寿太郎清国公使が桂内閣の外務大臣に起用され、その後任に内田康哉が選ばれた。康哉36歳、政子30歳。
5年以上の長い期間、日清戦争後の清国の要路と連携して友好ムードをつくり、ロシアの陰謀画策を打破し、ついに日露戦争中の清国中立までに漕ぎつけた。
政子は西太后や要人との交流をかさね、一緒に写真をとるなどの活躍をしている。
明治38年9月、ポーツマス条約の締結で日露戦争はおわった。日清間でも満州での権益、遼東半島の租界と鉄道支線の譲渡問題などの交渉を終え、内田は清国公使の任務を辞した。
オーストリア大使:
明治40年に内田はオーストリア大使を命じられ赴任する。当時はハンガリーまで含む大国であった。
日露戦争で大国ロシアを破った東洋の小国日本の新任大使は、皇帝、政府、国民から暖かく
迎え入れられた。
清国のように神経をすり減らすような外交問題もなかった。
また内田は、清国での外交交渉の成果を認められ、男爵を授与された。
政子は男爵夫人として、多くの欧州皇族や、日本からの来客との対応に忙しい日々を過ごした。
とくに原敬が欧州視察のルートでオーストリアに来た時は、親しい内田のいる大使館に宿泊した。のちに原敬内閣で外務大臣に迎えられる縁となった。ここは2年間の勤務であった。
アメリカ大使:
明治42年に、小村外相からの電報で、アメリカ大使への転勤命令がとどいた。
満州問題をアメリカが批判しはじめており、また日米通商条約の改定問題も発生していた。
これらを内田大使は奔走して、2年の間に解決したという。
またワシントンに日本の桜が寄贈されたが、最初の2000本は環境があわずに枯れてしまった。政子の実家は奈良の造林技術にすぐれた人材が多いので、その力を借りて、2回めの桜移植を行い、見事に定着させたのも、この頃であった。
これらの成果で、内田は2年で帰国し、子爵の爵位を授与され、外務大臣となる。
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