安徳天皇入水の図 |
安徳帝は壇ノ浦で亡くなった、が通説だが、それをひっくり返す話。
源平の壇ノ浦の戦いで平家とともに亡くなったとされる安徳天皇だが、難を逃れ晩年を過ごしたと言う伝説の地である。
対馬の地頭代であった宗重尚公(宗家初代)は壇ノ浦合戦後60余年、帝が70歳の時の寛元4年(1248年)筑前与志井からお迎えして、久根の地に御所を営みましたが、それから5年後、帝は崩御されたという。
宮内庁公認の史跡サインとともに、この対馬の地に辿り着いた安徳帝はこの地でひっそりと暮らし没したと由緒書にある。
たしかにいろんな地に、安徳帝の足跡を示すような伝説がある。
福岡の那珂川市には、安徳という地名まであるし、宗像市には二位尼の御廟がある。
ということは、二位尼と安徳帝は、どこかでルートを変えて壇ノ浦には行かなかった?
平家物語や吾妻鏡に記載された歴史は、生き延びた安徳帝が安寧に暮らせるように配慮したカムフラージュ?
帝を殺した頼朝が後世に「極悪非道」と言われていないのは、やはり命を助けたから?
義経伝説が美談になっているのと同時に、この安徳帝・対馬に死すは、かなり嬉しい話である。
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