「かすや」という名は日本書紀や古事記のなかにはすでに登場している。
これは、古墳時代後期(527年)に大和朝廷に反乱した磐井と呼ばれた北部九州を統治していた豪族が、戦いに敗れたために、その息子である葛子が捕らえれ、死罪を逃れる為に
「糟屋屯倉」を朝廷に献上した。
(「糟屋屯倉」は今の糟屋地区内にあったとされる。)
次に、746年に造られた大宰府の観世音寺にある梵鐘と同型で京都妙心寺にある日本最古の梵鐘(国宝)にも「糟屋評」の文字が彫られている。
これは戊戌年、西暦698年に舂米連広国(つきしねのむらじひろくに)という糟屋評(こおり)の長官であった人物がこの鐘を鋳造させたことが記されている。
その後も、『筑前国風土記』(逸文、713)、『日本書紀』(720)、『延喜式』(927)、『和名抄』(931–938)に一貫して「糟屋」という文字で現れる。
また、万葉集の中にも「滓屋郡」が出ている。
『和名抄』によれば10世紀当時糟屋郡には香椎郷(カスヒ)・志阿郷(志珂の誤りか)・厨戸郷・大村郷(オホムラ)・池田郷・阿雲郷(阿曇の誤りか)・柞原郷(クハラ)・勢門郷(セト)・敷梨郷の9郷が存在した。
粕屋町の江辻遺跡からは、「加麻又群」と刻まれた須恵器や「安」が刻まれた土師器などが出土している。
『和名抄(わみょうしょう)』では加須也としても記述されている。
かす(滓、糟、粕、残渣)とは、原料となる液体や固体などから目的の成分を取り除いた後に残る不純物やあまりの部分。絞り残りなど。転じて、良い部分を取り去って後に残ったったから不用の部分、劣等なもの、つまらぬもの、などの意味で、イメージが悪い。
加耶(加羅)を古代日本では「韓(から)」といったばかりでなく、これを「加夜」または「賀陽」などとも表記したものであった。
「伽耶」との関係が深い地方であったから、伽須耶、加須也、香椎などの文字に変更したらと思われる。
周辺の郡の名前でも、那珂郡は奴国の名残、早良郡はソールの変化と言われている。
現在の福岡市東方の糟屋郡(かすやぐん)は以下の7町を含むが、明治・大正期には福岡市の東区(箱崎、名島、香椎、志賀島・古賀市など)を含んでいた。
糟屋郡と粕屋町では「かす」の漢字が異なっている(糟は常用漢字外)。
近世以前は立花山以南を表糟屋(おもてかすや)、以北を裏糟屋と称している
南部は農村として開け、明治以降炭田として、北部は交通の要地として発達したが、炭坑は閉山となり、現在はともに福岡市郊外の住宅、工業地区になっている。
本州では、8世紀初め頃、相模国大住郡にあって渭辺(ヌマベ)郷とよばれていた。その後神亀年間(724-729年)に至って、糟屋郷と改称された。
9世紀中頃に相模の守護として下向した藤原良方の子孫が、糟屋の地で糟屋氏の先祖となりこの地を治めた。
糟屋の姓をもつ武将としては、糟屋 武則(かすや たけのり)が有名である。
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名で、賤ヶ岳の七本槍の一人。
姓は他に糟谷、粕屋、加須屋、賀須屋などとも記され、有名な名乗りとしては加須屋 真雄(かすや さねお/さねかつ)がある。出身は播磨あたりの豪族らしい。
氏族 | 糟屋氏(志村氏) |
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父母 | [諸説1] 父:志村某、母:小寺政職妹 [諸説2] 父:粕谷則頼 [諸説3] 父:糟屋忠安 |
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