大正15年生まれの私の幼年期の思い出。
私が生まれそだったのは箱崎町で、その歴史は次のブログに書いている。
西方浄土筑紫嶋: 九大と箱崎の歴史(改訂版) (ereki-westjapannavi.blogspot.com)
当時の日常生活は、つぎのとおり。
電灯は定時制で、夕方6時ごろ自動的にパットと点灯した。
その他の電機品はまったくゼロ。水道もガスもない。
家をでれば、すぐ砂浜と海があり、遊び場には不自由なし。
わが家の横の通路に紙芝居がくるので、家の窓から見えるが、得意であった。
当時は知らなかったが、日本はアジアではタイ国とならんで、ただ2国だけが、独立国だった。その他のくには、欧米の植民地支配の状態だった。しかし国の財政は苦しく、国民生活も次第に戦時体制にむかっていた。
町やむらも財政難で、古い建築物の再利用が当たり前であった。
日米戦争になり、敗戦してどん底生活のなかで、社会人となり、八幡の電気メーカーに就職して、20数年を黒崎地区で、社宅生活をした。
昭和45年に、やっと持ち家の建設を、古賀町で実現した。
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