晋作と龍馬の関係は次の3つがよく知られる。
1)晋作が龍馬に漢詩とピストルを贈る。竜馬はこれで命拾いをする。
2)小倉戦争を共に戦う。慶応2年(1866)6月17日未明晋作に依頼された龍馬は、乙丑丸で対岸の旧門司の幕府軍砲台を艦砲射撃し、勝利の援助をする。
3)薩長同盟のため龍馬は晋作らと尽力し、長州藩が政変・禁門の変などにより「薩賊会奸」と呼んだ薩摩と、恨みを越えて同盟を結びそして維新回天の大業に導く。
東行庵にも、その顕彰掲示板がある。別途、海峡沿いには青春交響の塔がある。
二人はともに慶応3年になくなった。(生まれは天保6年と10年)
高杉晋作の名前はいくつあるのだろうか。
諱は春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫(ちょうふ)。
号は初め楠樹、後に東行と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。他に些々などがある。
変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵と改名。
東行庵の記念館に花押があった。晋作と春風の文字を複合した書体である。
晋作の祖父が春時、父が春樹だから、「春」が高杉家では続いたが、晋作は子供の名を東一と名付けた。
孫の名前は春太郎にもどったが、これは伊藤博文が潜伏時につかった変名でもある。
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