平安貴族にも、犯罪者がいた。年貢を横取りしたり、官位争いで殺人をしたりするものもいた。
平安京には、群盗が侵入して、治安は悪化していた。
これらの対策に、検備使の制度が設けられ、天皇家の子供や貴族の子供で、官位につけないで、武力や騎射の技術があるような人物が、採用された。
子の武士集団の代表が平家と源氏で、坂東武者もその流れである。
頼朝に従う坂東武者に平氏が多いのは何故?。
頼朝以前の源平の関わり
まずは、935〜941年承平天慶の時代。 平将門、藤原純友の頃。
清和源氏系図:
桓武平氏が坂東進出を開始したのは、宇多天皇より平性を賜った高望が上総介に任じられ坂東へ下向したのが始まりで、これをきっかけに桓武平氏の坂東の基盤化が進んだ。
(高望流桓武平氏)。
そして将門は坂東武者の棟梁として新皇を名乗り、都から独立した武者の独立国家を目指したが、時を得ず朝廷の意向に従う同族の平貞盛に討たれた。
その後、坂東平氏は朝廷の管理下で土着を続け、将門を討った貞盛の四男維衡が坂東ではなく伊勢に入り、伊勢平氏が誕生する。
(維衡流伊勢平氏)。
この伊勢平氏は坂東平氏とは異なり、貿易や海賊討伐で力を付けるが、それでも最終官職は受領どまりで、源氏に比べると相変わらず家格は低いままだ。
一方、清和源氏も「承平天慶の乱」で藤原純友を討った源経基の一族が台頭し、さらに源満仲が969年の「安和の変」で藤原摂関家との結びつきを強め、中央政界へ進出する。
そして、将門の乱以降落ち着いていた坂東が再び独立性を求めて、将門の娘春姫の子、平忠常(この方が上総広常ら房総平氏の直接のご先祖)が、反乱(1028年平忠常の乱)を起す。
この事件が結構ターニングポイントになって、源平の立場を確立するきっかけとなる。
この忠常を鎮圧したのが河内源氏の祖となる源頼信である。
しかし、この二人はお互いに尊重し合っており、実際には頼信の見事な戦略に感服して、忠常は戦わずに従っている。
このとき、頼信は忠常の潔さに惚れ、再び朝敵とされた坂東武者(桓武平氏・藤原秀郷の子孫)の存続に力を尽くす。
この頃の源平は、ライバルでは無く、武者同士とても仲が良い。
やがて頼信の嫡子の源頼義はその勢いをかって豊富な資源を有する奥羽支配を目論み、1051年に「前九年の役」を引き起こす。
そして、頼義の嫡子が源氏の誉れ源義家である。
頼義はこの義家を大変に可愛がり、武人としての英才教育を施す。
京都の石清水八幡宮で元服させた事から「八幡太郎義家」と称される。
さらに頼義は「前九年の役」の戦勝祈願をして、鎌倉にこの八幡宮を勧進、後の鶴岡八幡宮となる。
これが源氏と鎌倉の繋がりの初めである。
また、義家の初陣はいきなり過酷な「前九年の役」となるが、この時、頼義は義家の為に特別の鎧「源太産衣」を設えている。
以降、「源太産衣」は源氏嫡流が初陣に着用する特別な鎧となる。
頼朝も「平治の乱」で身につけていたのがこの鎧だ。
この後、源氏の家宝として八龍、薄金、楯無、日数、月数、膝丸、沢瀉と言った「源氏八領」が製作されるなど見た目もカッコ良い源氏のステイタスがつくり上げられた。
さて、義家は見栄えのみならず武家の嗜み「弓馬の道」は勿論、過酷な「前九年の役」を10代後半の多感な時期に経験して武家のありようを身につけていく。
特に影響を受けたのが、朝廷より派遣されていながら俘囚の安倍氏に加担した敵方の藤原経清であった。
長引く「前九年の役」では義家が、出羽の俘囚である清原氏を引き込む事で安倍一族をようやく滅ぼすことに成功する。
父頼義は戦いの中で、あまりに見事な戦いぶりに、捕らえた藤原経清を家来になるように説得するが、経清は奥州を侵略しようとしている頼義を厳しく批判した上、「テメェの家来など死んでもならん!」と反発する。
決して安倍氏を裏切らず、命をかけて信義を通したわけである。
これには父頼義のプライドはズタボロ、怒りに任せて、経清を鋸引きの刑にしてしまう。
この壮絶な情景を若い義家は目の前で見る事になり、義家は武家のあるべき姿を目に焼きつけた。
そして棟梁となった義家は、1083年に奥州を任せた清原氏一族の内紛「後三年の役」で再び奥州に赴く事になり、そこに清原清衡が現れる。
この清衡こそ、あの藤原経清の遺児で、経清亡き後、経清の妻、有加一乃末陪(ありかいちのまえ)は、清原氏に戦利品として囚われ側室とされていた。
清衡は連子として不遇の生活を強いられていましたが、そこに清原家の兄弟喧嘩が起き、内紛に巻き込まれた。
義家は、ここぞとばかり武家の誉と崇める経清の元に、奥州を取り戻すべく清衡に加担する事を決める。
思いもよらない義家の助力を得た清衡は清原一族を滅ぼし、奥州を治めることができた。
そして、清衡は本来の父の性、藤原を名乗り藤原清衡となり、奥州藤原氏の祖となつた。
義家は奥州藤原氏にとっても大恩人なのです。
後に義経(牛若丸)が奥州藤原氏を頼り、3代目秀衡に源氏の嫡流として手厚く迎え入れられたのは、このような経緯があっての事だった。
このときの坂東平氏の動向。
実は「平忠常の乱」以降、坂東平氏は徐々に源氏の家人となっていくが、この「後三年の役」を機に殆ど全ての坂東平氏や秀郷流藤原氏は、義家の家人に編成される。
すなわち、ここが坂東平氏が源氏化した時期である。
ここで源平の家格の問題で、よく源平は、どちらの家柄が上か?と言う議論がなされるが、これは明確に源氏が上なのである。
当時の坂東平氏にとって、源氏に編成される事は、反発するどころか望むところだった。
もちろん義家個人の人望も寄与している。
さらに、この後「後三年の役」勝利の論功行賞が行われるはずなのですが、何と朝廷はこの戦いを私戦と見なし、朝廷からの褒美は何一つでない。
困ったのは、義家で、源氏一族はもちろん、命懸けで付き従ってくれた坂東平氏に分け与えるものが何もない。主従関係崩壊の危機だ。
ところが、義家はウルトラCを見せ、何と坂東平氏の土地を安堵し、自分の私財を全て分け与えると言う神業をやって退ける。
これには荒ぶる坂東武者も惚れてしまい、義家は坂東平氏にとって大恩人であり英雄となつた。
以降、義家は軍団を解散して奥州、坂東から都に引き上げ、息子達を新たな所領の山陰の地に派遣して治めていく事になる。
そしてここから源氏の不遇の時代が始まる。
残念ながら、朝廷にとっては義家は出る杭だった。貴族連中も新たな武家勢力に自分達の立場、利権が脅かされている事に気付いたわけだ。
また、この頃には白河上皇による院政が始まっており、藤原摂関家との対立が激化していく。
摂関家との関わりが深かった河内源氏にとってはこの事も不利な状況となった。
「後三年の役」を私戦扱いした事にはじまって、あらゆる妨害、不義が行われます。
大人の義家は耐え続けるが、嫡男の義親は我慢がならなかったので、赴任先の山陰、九州で荒れ狂う。
最終的には義家は自ら息子の討伐に向かわねばならなくなるが、ここで非業の死を迎えてしまう。
代わりに討伐に赴いたのが、伊勢平氏の平正盛で、正盛は義親を成敗したと報告し褒め称えられる。
これを機に伊勢平氏は院に接近し、白河法皇の元で重用される中で地位を上げていく。
特に平清盛の父忠盛の時代には殿上人となり、他の平氏とは分けてこれを「平家」と呼ぶようになる。
一方、源氏は一族の内紛も勃発し弱体化していき、この頃は源平の立場は完全に逆転してしまう。
この状況を打破すべく密かに動き始めるのが、義親の子為義である。
為義は嫡男ではないが、源氏の内紛を治めた事から台頭しはじめた。
まず、長男の義朝(頼朝の父)は、坂東に下向し、かつての義家の地盤と坂東武者の源氏再編入に成功する。
さらに、源氏最強と称される八男の為朝を勘当扱いして、平家の勢力圏西国に送り込む事に成功する。
それぞれに大きな成果を上げ、義朝は三浦義明の娘を側室とし、南部坂東平氏との繋がりを取り戻す。
為朝に至っては、九州全域の豪族を抑え、平家の支配下にあった大宰府までも奪い、鎮西八郎と称されるまでになる。
こうして着々と源氏が地方の要所を抑えていく中、中央では院と朝廷、摂関家の争いが激しくなり、遂には1156年の「保元の乱」が勃発する。
この貴族のいざこざに源氏、平氏は巻き込まれて、親兄弟に分かれて殺し合う事になってしまう。
結果的に後白河天皇についた源義朝、平清盛が勝者となり、それぞれの一族を率いてゆく事になる。
そしてこの二人が雌雄を決するべく対峙したのが1159年の「平治の乱」だ。
源頼政が平家に与する等、多少のイレギュラーはあるものの、この戦が初の源平の正面対決と言える。
因みにこの間、源氏内部にもいざこざがあり、特に長男義朝と次男義賢の確執は重大であった。
為義は藤原六条家の娘を母とする義賢を嫡流としていた。
義朝が下向し南関東で力を付けると、為義に焦りが生じる。
また、義賢の中央政界での栄達は上手く進まず、結局、後になって北関東の下野に下向させて義朝に対抗させる事になる。
そこで義賢は秩父氏の娘を娶り、後ろ盾とする。
三浦家には、三浦義明の三人のお孫さん三浦義村、畠山重忠、和田義盛のつぎに、もう一人四人目の大物がいた。義朝と三浦義明の娘の間に長男として生まれた源義平である。
頼朝の長兄にあたる。
ここいらへんから、「鎌倉殿の十三人」お馴染みの方が現れてくる。
まず、保元の乱の前年1155年に義朝はわずか15歳の義平に命じて、嫡流争いをしていた義賢と秩父氏を討たせる(大蔵合戦)。
義平は南関東の坂東武者を率いて鬼神の強さでこれを攻め滅ぼす。
これより義平はその強さから「悪源太」と称される。
因みに、大蔵合戦で生き残った義賢の遺児駒王丸が後の木曾義仲だ。
義朝流の頼朝とは仲が悪い訳。
そして、義朝は1156年の保元の乱でも勝利し、父為義を廃し、正式な源氏の棟梁として平氏に挑んだのが1159年平治の乱である。
義朝としては仕上げの一戦だったのだが、当初は大戦にするつもりはなくクーデター的な形で済ませようとしていた。
その為、まったくと言って良いほど軍隊編成を行わずに始めてしまった。
主戦力である義平及び坂東武者も招集していない。義朝の兵はわずか200人程度でした。
途中で、自陣に囲っていた天皇を奪われ、後白河上皇に逃げられ、平清盛が参戦して漸く義平を呼び寄せる始末でだ。
もちろん義平は取るものもとりあえずやってくるが、当然準備不足である。
戦に間に合ったのは僅か十七人の家人のみ。
これが、「義平十七騎」である。
・鎌田政清
・後藤実基
・佐々木秀義
・三浦義澄
・首藤俊通
・斎藤実盛
・岡部忠澄
・猪俣範綱
・熊谷直実
・波多野延景
・平山季重
・金子家忠
・足立遠元
・上総広常
・関時員
・片切景重
錚々たるメンバーの若き日の坂東平氏。
三浦義澄(義村の父)、上総広常、首藤俊道
この三人は義朝と個人的に繋がりが特に深く、命懸けで戦う。
そして熊谷直実など、この後の源平合戦に参加する猛者の姿も見える。
主戦場となった六波羅では、平重盛軍500人と対峙し、義平と十七騎で追い払う事に成功する。
しかし、多勢に無勢。義朝が決死の覚悟で六波羅に到着した時には、付き従う家来は数騎しか残っていなかった。
この後、源氏宗家は粛清される中、坂東武者達は何とか逃げ延び帰郷した。
その20年後、平家の横暴が強まり、不平が高まっていたところに、平治の乱で共に戦った頼朝が挙兵した。
源氏大好きな三浦一族が馳せ参じない訳がない。
恐らくは上総広常も、若き日に苦渋を飲まされた事を忘れるはずがない。
平治の乱で初陣した頼朝とも、皆、何かしらの接点はあったと思われる。
坂東武者皆が集結するのは必然だった感じがする。
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