2022年6月13日月曜日

鵜殿一族と九州の鵜殿石仏群

 大河ドラマどうする家康でも、今川義元の武将の鵜殿長照が登場しました。

今川氏家臣の鵜殿氏の城は、愛知県蒲郡市 上ノ郷城です。三河平定を目指す 徳川家康の攻撃に合い落城 城主 鵜殿長照は 討死にしております。徳川方の服部半蔵が活躍した城です。


永禄3年5月(1560年)の桶狭間の戦い以前から、大高城の城代に任命されていた。大高城は対織田戦線の最先端にあって身動きを封じられ、兵糧枯渇の窮地に立たされていた。長照は城兵を鼓舞し、山野の草木の実を採取して飢えを凌いだと伝わる。

桶狭間の戦いの前哨戦となった松平元康(のちの徳川家康)の指揮による兵糧運び入れが賞賛された。その後本戦で義元が移動の小休止中に織田信長によって討たれると、元康よりも先に三河の本領に逃げ帰っている。

今川氏からの自立・決別色を強めた松平氏と今川氏に仕える鵜殿氏は三河国内の支配を巡って敵対していく。
永禄5年(1562年)には松平氏からの攻撃を受け、先遣の松平清宗などの攻撃は防ぎきるものの、上ノ郷城は陥落、父の長持と共に長照は戦死した。

この戦闘の際、子の氏長・氏次は捕らえられ、駿河国にて今川氏の人質となっていた家康の妻・瀬名姫(築山殿)(今川氏親族出身)、嫡男・松平信康、長女・亀姫らとの人質交換が行われた。

鵜飼、鵜沢など姓名は多いが、鵜殿姓は少ない。鵜飼の盛んな地方の駿府や遠州には多いのだろうか。
私が通っていたリハビリセンタに一人鵜殿さんが居られたが、もう退職されている。佐賀、長崎に少しある姓名のようだ。

鵜殿石仏群(うどのせきぶつぐん)が、佐賀県唐津市相知町天徳に存在し、県指定史跡である。むかし見学したことがある。
大同元年(806年)に刻まれたといわれ、十一面観音を中心に持国天、多聞天、不動明王など、密教の色彩がつよく感じられる。
相知町鵜殿窟(うどのいわや)と称される断層岩壁に彫刻された磨崖仏(まがいぶつ)群。かつてはその中に平等寺が建立されていたが、お寺は焼失し、今では石壁だけとなった。戦国時代よりはるか昔のことである。鵜殿一族との関係が知りたいものだ。



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