2022年6月2日木曜日

金子賢太郎

 昨日、地元出身の金子賢太郎の歴史番組をみた。

日露戦争の軍事費集めの成果や、和平交渉の小村寿太郎を支えた裏面工作などが紹介された。
樺太の南半分だけの成果に終わった日露戦争の結果に国民が怒り、日比谷焼き討ち事件などが起こったた。
西尾幹二の歴史書によると、日本が負けていれば、満州や朝鮮半島はロシアの支配下になっていた。それを防げたのは大きな成果だったという。
さらに欧州での英・露の対立がうすれて、英・仏・露三国協商が成立、2年後には日・露協商も成立した。
その後英米露三つ巴の渦のなかで、韓国の日本併合が、国際的な反論もなく成立したのは、日露戦争の結果だという。
現在の歴史感覚では少し飛躍しているように感じられるか、一理はありそうだ。


 日露戦争では日本海海戦、奉天会戦、203高地、旅順港閉塞作戦という戦いが注目を浴びる。しかしながら、戦争とは国家間の外交交渉の一手段ともいわれ、インテリジェンスの明石元二郎、外交の金子堅太郎が後方支援していなければ勝利はおぼつかなかった。
 金子はルーズベルト大統領とハーバード大学で同窓生だったが、アメリカ世論を日本支持に傾けるようにという使命を受けた。渡米を渋る金子の自宅には皇后陛下までが訪れて激励したという。
 ルーズベルト大統領は金子の訪米を待っていたが、電話機を開発したベルも金子を支援した。かつて、ベルの電話機開発の支援者として黒田の殿さまが資金を出したが、そのことを忘れていなかった。金子は黒田長知の随行者として留学したのが機縁だった。
 日露戦争は人的ネットワークの勝利でもあった。そのなかに
山座園次郎も絡んでいた。

日露戦争前、ロシアとの一戦に首を縦に振らない伊藤博文に対して、開戦強硬派の外務省政務局長の山座圓次郎は暗殺を考えていた。
 同郷の飲み会で息巻く山座を見て、伊藤の懐刀金子堅太郎はたまらず、山座の言動を伝えた。金子は山座の才を惜しんでのことだった。
 日露戦争が始まり、金子堅太郎は伊藤博文の命を受け、渡米した。ルーズベルトに対する工作が失敗した折には、太平洋に身を投げる覚悟だった。
 戦勝後、腰抜けの伊藤を暗殺しようとした山座はポーツマスでの講和会議に向かった。伊藤の前で頭を下げ、詫びてくれた上司の小村寿太郎とともにであった。
 講和会議が終了し、山座は小村より一足先に帰朝した。
 その足で、講和会議の報告に向かったのは、伊藤の別荘だった。
 遅れて帰国する小村を迎えに、伊藤の姿が横浜埠頭にあった。
 暴漢に襲われ、巻き添えを食えば生命すら危うい中、桂太郎、山本権兵衛が小村の両脇を支えた。

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