筑前勤王党の1人:早川勇
早川勇の妻ミネは、筵内村(現在の古賀市筵内)の酒造業安武家の娘であった。このことは近年宗像の郷土史研究家が、矢野家の所有文書を調査されて判明したそうだ。
筑前国遠賀郡(現在の福岡県遠賀郡虫生津)の苗字帯刀を許される庄屋嶺家の三男に生まれ、医師の早川家に養子に出て医師となる。
月形洗蔵の父・深蔵の塾で学んだことで月形と知り合い、尊王攘夷思想に感化される。
禁門の変の後、三条実美たちが長州へと落ちるときに随従していた中岡慎太郎と長州で知りあい、早川の仲介で元治元年12月4日(1865年1月1日)に西郷隆盛、中岡の会談へと結びつく。
さらに、同年12月11日(1月8日。12日(9日)という記録もある)に早川、月形の斡旋で西郷、高杉晋作の薩長同盟の会談が実現する。
西方浄土筑紫嶋: 薩長同盟に関わった人々(改訂) (ereki-westjapannavi.blogspot.com)
ここから、長州にいた三条たち五卿は元治2年1月14日(1865年2月9日)、筑前大宰府の延寿王院(現在の太宰府天満宮境内にある)に移動を開始した。
西方浄土筑紫嶋: 五郷の筑前西遷の旅程と遺跡 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)
その後、早川、月形たち筑前勤皇党は藩政を乱したとして月形は斬首、早川は幽閉となった(乙丑の変)。
明治に入ってからは、奈良府判事や元老院大書記官などを務めた。
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