2022年6月24日金曜日

西沢潤一:光通信にかけた男

 今日PM6.10からのNHK特集:西沢潤一:光通信にかけた男(BS) 「1985年の番組の再放送」を見ていて、驚いたことがある。

画面のように、西沢潤一教授は仙台生まれの仙台育ちと解説している.
試しにネット検査してみると、殆ど仙台生まれになっているが、これも誤りである。NHKもネット情報をうのみしているようだ。

NHKの解説表示



西沢教授は私と同じ大正15年の生まれで、学会の懇親会の時に、私と同じ福岡の箱崎小学校に3年生位まで在学していたということを聞いている。
彼の父は当時九大工学部の教授で、3年生のころ東北大学に転勤されたので、仙台に転校したが、筥崎は懐かしいと言われた。
九州大学50年史にも、父親の西沢恭助の在籍の記録は残されている。
私のクラスにも医学部の教授の子息がいて、家が近くだったので良く遊んだし、やはり東北大に転校後にも文通していた。
西沢教授は同じクラスではなく直接の記憶はなかったが、同窓生だったことをこの時はじめて知った。
懇親会で同席されていた九大の原田耕介教授の父の原田恭介教授も九大教授で、父親が同僚だったので、すでに九州生まれのことはご存じであった。両方の父親が当時すでに90歳 すぎであられたので、お互いに苦労しますねと、談笑されていた。その父親の恭助教授も93歳でこのテレビに登場されていたが、100歳くらいまで生存されていたようだ。




放送内容の本題の「光通信の特許」が、頑迷な日本特許庁の反対で成立しなかったことで、西沢教授がノーベル賞に届かなかったことは、残念至極である。

西沢論文が掲載された論文誌



光通信方式

西沢教授が考案し特許を出した光通信方式は、電気信号をレーザー光に変えて送り、受信端でまた電気信号に変える方式で、電線によるよりも千倍の速度が可能とされていた。
半導体の開発や光ケーブルの製造技術などが困難視され、日本国内での開発協力者はなかった。
むしろ米国のベル研究所のピアース研究部長が着目し、米国企業での開発を推進した結果、コーニング社がひかりファイバーの製造に成功した。西沢が特許申請して6年後にアメリカで特許が成立した。日本の特許庁は西沢の特許を拒否し続けた。
ピアース研究部長




1985年には、北海道から鹿児島までの日本縦貫光ケーブルが完成した。1990年当時、北部九州での光ネットワークKARRNの推進運動には、わたしも参加したので、思い出が沢山ある。

しかしその後40年近くの間に、携帯電話の普及やスマホの普及で、電波通信基地がひろがり、電波周波数もラジオのKHz時代っからFMや光通信のMHz時代をこえて3K,4K,5Kの時代になり、光通信との割合がどう変化しているのか解らなくなってきた。
私も去年まで自宅に光回線をひいていたが、現在老人ホームではポケット WiFiを使用しているので、身近に光ケーブルは無くなった。同じ状況の方も多くなったようである。
そこで、第5世代移動通信システムである5Gと今後のWi-Fiや光通信の必要性について、ネット検索してみた。
5Gの登場で、飛躍的に高速通信・同時接続・低遅延がより改善するとされているが、それでも屋内の通信環境として今後もWi-Fi環境や光回線は必要であると言えそうだ。
むしろ5Gによってより快適なインターネット通信が可能になるなかで、その補完をすべく、高性能Wi-Fiや光回線の整備が必要になるかもしれないとされている。光回線の消滅はなさそうだ。


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