2023年5月19日金曜日

カレル・チャペックの主要作品と「ロボット」


 









1890年、当時オーストリア=ハンガリー帝国領であったボヘミアのマレー・スヴァトニョヴィツェという小さな町で、チャペック家の三男として生まれた。

家族は父と母と姉、そして兄ヨゼフとの5人家族、父は町医者で、また当時地域の文化活動の中心を務めていた人物だった。

1905年、ボヘミア東部の中心都市にあるギムナジウムに進学するが、思想問題でやめなければならない事態に陥ったため、結婚していた姉を頼りモラヴィアの中心都市ブルノチェコ語ギムナジウムへ進学する。

1909年、ギムナジウムを優等で卒業してカレル大学へ進学し、哲学を専攻する。1910年ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現ベルリン大学)へ留学する。1911年、ベルリンの大学を修了後に兄ヨゼフがいたパリソルボンヌ大学へ留学、造形芸術家集団に参加する。ヨゼフとともに戯曲『盗賊』を書く。

1914年、第一次世界大戦が勃発する。チャペックは鼻骨の怪我により従軍することはなかった。

1915年に帰国後、母校のカレル大学で博士号を得る。卒業後、しばらくは家庭教師の仕事をしていたが生計が立たず、実家から仕送りを受ける。

1916年、チャペック兄弟として正式にデビューする。このころはフランス詩の翻訳に熱心に取り組む。同年、持病の脊椎のリウマチにより兵役免除となる。

1917年、独立前に唯一発行が許されていた国民新聞(ナーロドニー・リスティ)に論説文を書く仕事に就く。

1920年、プラハヴィノフラディ劇場の演劇人としても活動していたチャペックは『R.U.R.』を書き上げる。このときにロボットという言葉が生まれた。後の妻オルガ・シャインプフルゴヴァーとこのとき出会う。


30歳のカレル

1921年、チェコスロバキア政府は共産主義運動を弾圧し、政府にあわせ次第に保守化していく国民新聞に不安を感じ、民衆新聞(リドヴェー・ノヴィニ)へ兄とともに移籍する。その後、死ぬまで民衆新聞に在籍し続けた。戯曲『虫の生活』(ヨゼフとともに合作)を出版する。

1922年に『クラカチット』を新聞の連載小説として執筆開始する。戯曲『マクロプラス事件』を書く。『絶対子工場』(Továrna na absolutno)を出版する。この年、当時の大統領であるトマーシュ・マサリクと面識を持つ。

1924年、『クラカチット』が出版される。同年、国家賞を受賞する。イギリス・ペンクラブの招待により英国大博覧会取材をかねてイギリスへ、この年の秋頃から多方面から知識人を自宅に招いて討論する『金曜会』を開くようになる。

1925年、ペンクラブのプラハ支部設立準備委員になる。翌月には会長に選ばれる。ヨゼフと再び合作、戯曲『創造者アダム』を制作開始する。

1926年。『創造者アダム』を完成する。「金曜会」にマサリク大統領が初めて参加する。この年の大晦日に行われたパーティーで行われた余興により、マスコミに論争が起きたが、後に解決する。

1929年。『園芸家12カ月』を兄ヨゼフ挿絵で出版。兄弟は園芸家としても知られている。

1933年、飼い犬ダーシェンカを主人公にした『ダーシェンカ、子犬の生活』や、『ホルドゥバル』を出版する。『流れ星』を執筆する。チェコスロヴァキア・ペンクラブ会長を辞任する。

1936年、『山椒魚戦争』を出版する。20年に知り合ったオルガ・シャインプフルゴヴァーと結婚。ノルウェーの新聞雑誌に、ノーベル賞を彼にという提案が初めて出される。

カレル・チャペックの墓

1938年、ルイ・アラゴンの提唱の元、フランスの11人の作家がノーベル賞を与えようとほかの作家たちに呼びかけをするが、本人は辞退する。同じころ、右翼系新聞が批判する。12月中旬、嵐で荒れた庭の手入れをしたことが原因で風邪をひき、一時回復するものの19日に悪化し、12月25日の未明に肺炎により死去する。最後のコラムが民衆新聞に載る。小説『作曲家フォルティーンの生涯と作品』の草稿が未完で残る。現在、ヴィシェフラト墓地に埋葬されている。

ロボットという言葉を生み出したことに少々苦い思いを抱いていたようで、「歯車、光電池、その他諸々の怪しげな機械の部品を体内に詰め込んだブリキ人形を、世界に送り出すつもりは作者にはなかった」と述べている。

1939年、ナチス・ドイツがプラハを占領する。3月、チャペックの死を知らないゲシュタポがチャペック邸を襲撃、踏み込んで来た一同に、オルガは夫カレルが4ヶ月前に没したことを、皮肉を込めて伝えたという。


カレル・チャペックの名は、「ロボット」という小説の作家として知っていたが、小説ではなく、4幕の戯曲であった。しかも

彼は群像劇と称していた。多数の登場人物が登場して、いろんな意見が出てくるドラマである。例えば老若二人のドミンの科学技術の見かたの差も大きく異なる。



1920年ロボットの初舞台背景

カレルは、ラボル(labor)と名付けようかと思ったが、無味乾燥だなと兄に相談し、ならばロボット(robot)いう名称にしたらと、兄の画家ヨゼフのつぶやきで決まった。


基本的テーマは、人間の脳が生み出したものが、人間の手におえなものになってしまうことで、ロボット、原爆、AIなどに共通の、科学技術の問題の初期の論説である。

彼は新聞記者であり、詩、小説、戯曲、論評をかき、チェコが独立した時は、兄と二人で、国旗、国歌、紙幣のデザイン、憲法など多くの分野で短期間での制作に貢献したという。

ロボットの戯曲は、初期の活動の一つにすぎなかった。

このことを放送大学の講義で知った。

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