対岸の展望台より一望できる |
名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣添城があったが、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。
名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。
五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。
真田丸の一族もこの地に滞在した。
天守閣と諸侯の陣屋配置図 |
歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。
大正15年(1926年)11月4日、「名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)」として国の史跡に指定される。
昭和30年(1955年)8月22日特別史跡に指定された。
この頃はじめて現地を訪れたが、石碑のみで、詳細なガイド図などは不明であった。
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(87番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
現地の風景 |
昭和30年(1955年)8月22日特別史跡に指定された。
この頃はじめて現地を訪れたが、石碑のみで、詳細なガイド図などは不明であった。
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(87番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
絵図・地形・発掘・出土品 |
近年跡地の地形の精密計測と発掘調査がすすみ、また名護屋城絵図の発見があって、これ等のデータを総合して、CGによる復元がすすんで、現地ではスマートフォン・タブレットによるバーチャル体験ができるようになっている。。
CGによる復元城郭 |
現実の山里丸の跡は、芝生の庭であり、井戸の跡も存在している。
特に秀吉は天下統一後の戦には、城郭の周辺に茶室や能舞台を設けており、これらも絵図にえがかれているので、CG化されている。
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