2016年6月13日月曜日

九度山 松山常次郎 記念館


松山常次郎記念館

大河ドラマ真田丸で有名になった九度山には、平山郁夫画伯とゆかりのある松山常次郎記念館がある。
この記念館は、郷土(九度山)が生んだ政治家・松山常次郎氏にかんする遺品や資料の展示をしている。
また平山郁夫画伯の絵画も展示している。
平山画伯とのご関係は、画伯の奥さんの美知子さんが松山常次郎様の長女であり、この記念館は美知子さんのご実家をそのまま改修された建物である。

■平成19年5月3日オープン

■所 在 地 ; 九度山町九度山1452番地の1  (九度山駅下車、商店街(真田のみち)通り


松山常次郎さんとは?

1884年(明治17年)に父常治、母さわの長男として九度山で生まれました。
常次郎さんは、人生の前半は「実業家」として、後半は「政治家」として活躍されました。

実業家としての常次郎は、明治41年に東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業後、アメリカに留学し、橋梁の建設などについての知識を深めました。
2年間の留学を終えた後、米の増産を目標に朝鮮にわたり、新たな土地の開拓に取り組みました。
大正7年には開墾会社「黄海社」を創立し、自らが社長となり、各方面からの農業土木事業を受諾しました。
さて、その当時、九度山の人々は誰もが「九度山は耕地がせまいので、若者の活動の場として、新天地を開く必要がある」と感じていました。
そこで、相談を受けた常次郎は、地元の有志の人々と協力し、朝鮮に新たな開墾会社「南海拓殖株式会社」を設立しました。
会社の事業は順風満帆ではなく、大正14年の大豪雨により、莫大な被害を受けたこともありましたが、通算2万4千ヘクタールにわたる水田を造成し、朝鮮において、最も広く開拓した人といわれるまでに至りました。
また、朝鮮への進出は、将来不安を感じている町農家の次男三男の進む道を開き、また外地への進出の夢を果たす画期的なものでした。

次に、政治家としての常次郎は、 大正9年から終戦までの24年間、衆議院議員を務めました。
昭和11年には外務参与官、昭和15年には海軍政務次官などを歴任。
しかし、敗戦の後は海軍政務次官の経歴のため、公職追放となり、政界から引退しました。
彼が最も力をいれたのは、廃娼問題、普通選挙、婦人参与権などで、極めて進歩的な政治家であったと言われています。
また、熱心なクリスチャンで、昭和16年にはキリスト教平和使節団を組織して渡米、日米開戦防止に力を注ぎました。
九度山に関わりのある常次郎の功績の一つをとりあげますと、現在、九度山と高野口を結ぶ「九度山橋」の鉄橋化でした。
明治時代は通行料金をとる木造の橋でしたが、橋が木造であったため、たびたび修理の必要があり、さらに洪水のたびに流されてしまいました。
 地元から鉄橋の建設を望む声が高まり、大正8年に、鉄橋建設の請願書が県知事に提出されました。
 その時、常次郎が県知事に鉄橋建設の必要性を強く説き、その努力もあって、大正11年に幅11.5m、長さ226mの鉄橋が完成しました。
この鉄橋のおかげで、多くの九度山人が隣の高野口方面に進出できるようになり、常次郎の功績の一つに上げらています。
このほか、常次郎は数多くの功績を残し、77歳でなくなった時には、正四位、勲二等が贈られました。


美知子夫人の思い出話。


父は九度山の「たねや」という家に生まれました。

当時は高等小学校までで、上の学校には行かないんですが、父はもっと勉強したいと(奈良の)五條の中学まで、初めは四里か五里を歩いて、途中から寄宿舎に入ったらしいんですが、そこで特待生になり、京都の三高に入り、そこでキリスト教を知って、クリスチャンになったんですね。
そして東大の土木工学科に入り、橋を作る土木工学を学び、卒業後はアメリカ・カンザス州ウェリントンの工務所へ橋の勉強に行ったらしいんです。その後父は政治家になりました。
 
 子供の頃、私は家の庭の樫の木に登ってお菓子を食べたり読書をするのが好きだったので、父から見ると、私は非常に出来の悪い娘で、「こういうおてんばの子は嫁の貰い手もない」と言っていたらしいんです。
 父の書斎を見ると夜の十二時前に灯が消えることはないし、朝五時にはもう起きている。そういう父を見て、私なんか全然違うなと思っていました。
 戦後になってパージ(公職追放)になり、収入が途絶えたのに、家にはいつも居候が五人ぐらいいました。
 
 私が東京美術学校、今の芸大に入って、最後のクラス会を代々木にあった家でやったんです。それから何となく平山が家に来て夕ご飯を食べたりするようになったんです。
 そんなふうに皆を受け入れる家は当時もなかったですね。特に今は核家族で、とてもそんなことはやってられないですね。

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