毛利元就は地方豪族の連合体の盟主で、唐傘連判状で豪族群をまとめていった。唐傘とは笠状に名前を書いていき、円形だから上位、下位の分け隔てがないことを表している。
この形式を考案したのは、彼が家督をつぎ、毛利一族をまとめていくまでの苦難が背景になっている。
元就の妻 |
元就の系図 |
文亀元年(1501年)には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に、父・弘元が酒毒が原因で死去する。
この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」と書き残している。
永正13年(1516年)、長兄・興元が急死した。死因はやはり酒毒であった。父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場には出ても自らは下戸だと口をつけなかったという。
この頃、吉川家から妻妙玖を娶り、家政をまかせる。
しかし毛利家内では家督について揉め事があったらしく、この家督相続に際して、重臣達による「元就を当主として認める」という連署状が作成されている。
その後も異母弟との争いがあり、数年間は一族をまとめるのに努力している。
子供たちに諭した「三本の矢」のまえに、多くの矢をまとめる苦労が続いていた。
しかし彼の死後の毛利家にうけつがれたこの連合思想は、関が原の時に弱点をあらわした。 元就の先見性があってはじめて連合運営は成り立っていたのだ。
しかし彼の死後の毛利家にうけつがれたこの連合思想は、関が原の時に弱点をあらわした。 元就の先見性があってはじめて連合運営は成り立っていたのだ。
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