後藤又兵衛が脱藩して細川に仕えようとした時も、黒田が妨害した。また黒田の六端城はすべて細川との国境に築かれた。
細川は、黒田の動きをつねに細かく調査していた。
福岡城の天守閣取り壊しのことも、忠興の手紙が唯一の歴史証拠となっている。
また船舶奉行の小濱と親密になり、黒田の大形船が規制の500石を越えているらしいと密告したりしている。
また長政の政略結婚のうわさも、しっかりキャッチしていた。
家康なきあと、秀忠や家光の側近との接触をうまく行って、黒田がお家騒動でもたもたしている間に、細川は肥後54万石と、九州で島津につぐ大藩に成長していった。
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